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唐山大地震の記憶 [雑感・話題]

 なぜ今「唐山大地震の記憶」か?それは昨日が唐山大地震がおきて32年にあたるからです。1976年7月28日3時42分、マグニチュード7.8の大地震が起こりました。「記憶」といっても私はそのとき中国にはいなかった。夏の合宿で南アルプスの山々を下りてうろうろしていた頃です。南アルプスでは「雷」が一番怖いもの。日本では昔から怖いものの序列として(今では私語かもしれないが)地震・雷・火事・親父といわれていたけど、中国では雷より怖い地震が起きていたのでした。実はこの地震のことはまったく知らずに過していました。今年の四川大地震はタイムリーに地震情報が届いているのとは大きな違いです。この違いはこの32年の通信技術の確信という事もありますが、その当時の中国の社会状況も大きく影響しています。当時の国際的な地震観測網も中国の地震はとらえていたはずですが、当時は中国は文化大革命の最中で海外から得られる中国の情報は今よりずっと限定されていた頃です。中国政府は海外政府からの援助の申し出に対して、この困難は時刻で処理できると主張して一切の国際援助を拒んだといいます。海外だけでなく国内での情報も充分ではありませんでした。死者24万人といわれる犠牲者が、明らかにされたのは三年後の中国国内の地震学会であったとのことです。
 この記事は当時中国にいて震源から400km余り離れていたにも拘わらず大きな揺れを経験し、援助活動にいった父親の話を聞いた経験談です。ここに出てくる邢台地震というのは1966年3月8日5時29分おこったマグニチュード6.8の大地震で二週間後の地震での被害も合わせて8064人の犠牲者が出ました。政府発表の記録とは異なり一般人の地震の記録を書いた記事があり、是非紹介したと思って翻訳作業をしました。本文にも書かれていますが、この記事を投稿して間も無く、全く偶然に四川の地震が起こったようです。訳していて気付いたのですが32年前も今年の四川と同様子供を抱いて死亡した母親がいたということを知り(震災の遺書1参照)吃驚しました。地震はいつも悲しい記憶を残します。私たちもこのような悲しい出来事がより少なくなるよう(減災)取り組みを続ける必要があると思いを新たにします。

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写真は唐山地震後の様子で、原文にあったもの。地図はgoogle mapより。

080512唐山大地震の記憶_中.jpg

邢台&唐山.JPG
原文
关于“唐山大地震”的记忆
5月7号深夜1点多,正在熟睡中的我,被一阵晃动给晃醒了,“地震!”我本能地把睡在身边7岁的女儿一把搂过来,护在我的身下。这一次,晃动的时间好象很长,以为过去了,却又来了。反复了三次,才终于结束,女儿自始至终都在睡梦中,我却再无法入睡。脑子里浮现起30年前,也就是1976年夏天,那场唐山大地震。

我的祖籍是唐山,而我的出生地却是在邢台,这两个地方都是经历过大地震的震中。然而,我是幸运的。邢台大地震时,我在唐山老家;而唐山大地震时,我在邢台。所以朋友们有时开玩笑说我命里是地震的克星,地震都怕我,躲着我震。

邢台地震时,我还小,没有任何记忆,唐山大地震,虽然我不在那里,却经历了同样的紧张和恐惧。

记得那天晚上我们一家也是从晃动中惊醒的,半夜跑出来后,再也没不敢回到房间里去睡。

第二天傍晚,知道了震中在唐山,矿上马上组织了抗震救灾小分队,父亲被任命为队长,待命随时准备出发。那时,矿上各种传言都有,最多的说法是,邢台大地震过去正好10年了,地震带正处在活跃期,近期发生大地震的可能性很大云云,搞得人心慌慌。那时我家住的是矿上盖的一排排的平顶辁(quan4声)房(类似陕北的窑洞),房子先用砖砌起一圈弧形的屋顶,然后浇筑上水泥,所以屋顶很沉,并且几乎没有任何钢筋类的支撑,父亲说这样的房子一旦塌下来,人就得被活活地埋在里面,连救都没法救。父亲放心不下,在临行前,把大床垫高,每一个支架和支柱都用圆木在两边支成一个三角形加固,床下放了很多食品和水,还拉了一根电线在床下,安装了一个电灯泡用于照明。父亲说,这就像井下采掘区支撑井壁的井架一样,上面就是全部坍塌了,这个床也足够支撑出一个空间为我们母女四人保命。不愧是在煤矿上干了半辈子的人,这种发明大概至今还没有人能出其右吧?

父亲安排好了这一切,就星夜兼程地奔赴了灾区,我们母女四人,从此每天晚上开始了在床下睡觉的生活。

那个时代,电话还没有像现在这样普及,而且,地震,隔绝了唐山与外界的一切通讯联系。父亲走后,母亲一直都提着心,那时,我们家除了我们一家外,所有母亲和父亲家的亲人都生活在唐山地区,姥姥、姥爷、奶奶、姨,舅舅、姑姑、伯伯们,地震后联系不上,生死不明,这些亲人让母亲牵肠挂肚;父亲赴灾区,天气炎热,人们常说大灾之后必有大疫。加上那里余震不断。母亲也担心着父亲的身体和安危。临行前记得母亲叮嘱父亲:到了唐山后尽可能地查询一下亲人们的生死情况,尽快来个信。然而这个“信”却让母亲整整等了一个月。

父亲他们走后的第三天早上,矿上专门派去送他们的大卡车回来了,带来了一封父亲的信,父亲信上说,唐山的受灾情况比想象的要惨烈得多,整个唐山市几乎见不到一处矗立的建筑物,公路都断了,越靠近唐山越难走,有的地方公路裂开了大口子,车过不去,当地老百姓就把门板卸下来,搭在上面让车通过。在路过一个类似像院子一样的门前时,父亲看到那里摆了一片尸体,父亲粗粗的数了一下,大约有40多具。大卡车之所以这么快就返回,是因为,父亲带的抗震救灾小分队没有吃的了,临行前,大家以为既然是抗震救灾去了,抗震救灾指挥部门肯定会在吃住上有安排,没想到,到了那里才知道,抗震救灾物资是专门供给灾区人民的,你们既然是抗震救灾来的,自然就该自己解决吃住。所以这三天,大家就靠挖出来的一袋大米和着盐在解决肚子问题。父亲给母亲开列的清单里给我印象最深的是要两个大床单和大塑料布,因为那里有时下雨,无法睡在地上,所以父亲他们就把床单捆在两棵树间像吊床一样,上面再支块塑料布,用于挡雨。睡觉时,旁边不远处就有几具还没有来得及处理的尸体,天热已经散发出难闻的气味,还有苍蝇飞来飞去,薰得父亲晚上睡不着,要大床单是想用来连头带脚裹严实了睡。最后父亲在信中告诉母亲,还没有亲人的消息,因为,父亲们的工作是和其他单位的抗震救灾小分队协作,尽快恢复唐山市的供电供水,所以很忙,在这种情况下实在无法张口请假。

因为,父亲们在等着卡车尽快返回,好有饭吃。所以,母亲一接到信就赶快跑到商店,买了很多吃的,装上了车,最后又买了10几个大西瓜……卡车装满后,一分钟都不敢耽搁,连夜又返回了唐山。后来,听说母亲买的这10几只大西瓜,成了大家记忆最深的美味。

一个月后,上级领导知道了父亲的情况后。催促着父亲回老家看了看。除了父亲的两个叔叔---两家10口因地震引发的大坝决口被洪水冲走外,其他的直系亲属都在这场灭顶之灾中幸存了下来。我至今无法想象,在那个时候,父亲是怎样强忍着对亲人们生死不明的牵挂而全身心地投入工作的。只记得和父亲一起去抗震救灾的叔叔们一提起父亲时的赞许和钦佩……

父亲们在唐山整整呆了三个多月,回来时又黑又瘦,很多地震的情况,是父亲回来后才讲给我们的。比如有趁火打劫的人被民兵们用细铁丝捆住两个大拇指倒捆在树上;比如有个人去偷死人身上的手表,被解放军一枪打死;开滦矿的司机是怎样第一个飞车进京向中央汇报震情的;刚进唐山时,看到有一处高高的坍塌了的楼房的废墟上有个被阳台预制板压住了下半身的人,废墟太高了,徒手很难爬上去,更别说救援,没办法,眼睁睁地看着那个人慢慢不动了;一位母亲跪在那里,在腿和腹部为幼小的孩子撑起一个小小的空间,孩子安然无恙,母亲却被砸死;父亲们是怎样在毛毛虫的进攻下在树上拴着吊床生活的……等等等等。唐山大地震的惨烈,就这样通过父亲的讲述,一幕幕地展现在我们的面前,深深地印在了我的脑海里。

30多年过去,我这个“地震克星”却来到了这个地震岛国,虽然天天过着与地震为伍的生活,但因为这里防震措施的整然和完备,地震于我竟不再那么恐怖了。

后记:在这篇文章刚刚写完不到3个小时后,四川汶川县发生了强度为7。8级的强烈地震。新浪网公布:到目前为止,北川县估计已死亡3000-5000人,成都死亡45人。又是一场人类无法预警的灾难!在这里为灾区人民的平安祈祷。

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訳文
 5月7日深夜一時過ぎ、熟睡していた私は揺れを感じて眼が覚めた。「地震だ!」私はとっさに脇で寝ていた七歳の娘を引き寄せると身体にかくまった。このときの揺れの時間はとても長く感じたし、終わったと思ったら又ゆれてきた。都合三回の揺れを感じた後ようやく治まった。娘はずっと眠ったままであったが、私はその後眠りにつく事は無かった。脳裏に30年前の、つまり1976年夏のあの唐山大地震の記憶が浮かんできた。
 私の原籍は唐山であり生まれは邢台である。どちらも大地震の震源となった事のある地である。しかし私は運がよく邢台で大地震があったときは唐山に居たし、唐山で大地震があったときは邢台にいた。それで友達があなたは地震に打ち勝つ運を持って生まれたのよ、地震のほうであなたを怖がって、あなたを避けるようにして大地を揺らすのよと冗談交じりに言う事があった。
 邢台地震の頃は私はまだ小さくて記憶すらないが、唐山大地震はその地に居なかったにも拘らず現地の人と同様の精神の高ぶりと恐怖を感じたものである。
 家のもの全てが、揺れに驚いて眼を覚ました。その後外に飛び出したが、二度と家に戻る気にはなれなかった。
 二日目の夜、震源が唐山であることを知った。まもなく地震救護小文隊が組織され、父が分隊長に任命され、命令があれば出発する手はずを整えた。その頃いろいろな噂が流れていた。最もよく聞いたのは邢台大地震からちょうど十年、地震帯はまさに活動期にあり、近々大地震の起こる可能性がとても高いなどといったもので人々をとても不安にさせた。当時我が家は鉱床の上に薄い板を並べた平屋建てのもので(ちょうど陝北の洞穴住居によく似ている)、家はレンガを積み上げてドーム状の屋根を作り、そこにコンクリートを流し込んでいた。それで屋根はとても思い上に鉄筋などの支持機構がまったく無いため、父はこの家はつぶれたら最後生き埋めになり、救助の手が届いても助け出す事は出来ないと言っていました。父はとても心配して出発間際にベッドの脚の下に物を置いて高く積み上げ、それぞれの脚の支えとして丸い木材を用いて三角形に形どり、床の下にはたくさんの食品と水を置いた。さらに電線を床下に敷いて照明用の電灯にした。さすがに鉱山で長く働いた事があるだけにこのような発明にかけては父の右に出るものは無いでしょう。
 父はこれらの作業を一通り終えると、夜間に急いで被災地に向け出発した。私たち母と娘の四人がベッドの下で寝る生活を始めた。
 その頃は今のように電話は普及しておらず、地震により唐山と外部との連絡の一切を遮断していた。父が出発してからというもの母はいつもびくびくしていた。当時私たちの家族を除いて父方母方の家族はすべて唐山にいて祖父母や叔父・叔母とは地震の後連絡が取れず、生死もまったくわからなかった。この近親の者のことを思うと気が気でなかった。父が被災地に向かった後炎暑となり、人々は大災害の後は疫病が流行するといつも行っていた。それに余震も断続的にあり、母は父の身の安全も気がかりであった。出発間際に唐山に着いたら親族の静止の調査を出来るだけやって直ぐに便りをよこすよう何度も言っていた。しかし、母は一ヶ月もこの「手紙」を待つことになってしまった。
 父たちが出発して三日目の早朝鉱床から彼らを送っていったトラックが帰ってきて、父の手紙を一通持ってきた。その手紙には以下のことが書いてあった。唐山の被害は想像をはるかに超えて悲惨であり、唐山市内全てにわたり建築物は見当たらず、道路は全て普通であり、唐山に近づくにつれ進むことが難しくなってくる。道路は大きく裂けて車が通れなくなっており、人々はそこに板を置いて車を通している。中庭のような場所を通ったときそこに死体が並べているのが眼に入り、父が大雑把に数えたところ40体ほどあった。
 トラックは直ぐに引き返した。それというのも父が連れて行った災害援助隊は食べ物を持っておらず、彼らは災害援助に行けば指揮本部が駐留場所や食べ物の手当てをしてくれるものと思っていたのである。災害援助物資は被災地人民のためだけに与えられるものであるとは思ってもいず、そこに行ってはじめて気がついたのであった。君たち災害援助のものは駐留する場所や食べ物は自分たちで解決すべきであるとのことであった。そういったこともあり、みんなはこの三日間米の袋を掘り出したり、塩をなめてお腹を満たしていたのであった。父が母に書き送った(必要物品)のリストで私が深く心にとどめているのは二つの大きなシーツと大きなビニールの布である。それというのも唐山では時々雨が降り、地面に寝る事は出来なかった。それで父たちはシーツの端を気に縛りつけハンモックのようにし、上面にはビニールの布をかけて雨を避けたのであった。眠っているときにも近くにまだ処理の済んでない死体があり、炎暑のため耐え難い臭気が漂い、さらにハエがあっちこっち飛び回り、においのため父は一晩中寝られないとのことであった。シーツは頭と足を一緒くたに包んで眠る予定であった。最後に父は親族の手がかりは得られないと書いてあった。父たちの作業は他の分隊と共同して、唐山市内の電気・水の供給復興に当たるのでとても忙しく、この情況の中では休暇を願い出る事は不可能であったのだ。
 父たちは食事にありつけるようトラックが引き返すのを待っていたので母は手紙を受け取ると急ぎ店に駆けつけ食糧をたんまり買い込むと車に積んだ。最後には十数個の大きなスイカを買い・・・・・・トラックがいっぱいになると一分間の猶予も無く、夜にも拘らずまた唐山に向かった。後になって聞いたところでは母の買ったこのスイカが最もおいしかったものとして深くみんなの心に留まっているとのことであった。
 一ヵ月後上級の指導者が父たちの情況を知る事になる。父に実家に赴いて見てくるよう促した。父の二人の叔父さんの都合十人の家族が地震の後のダムの決壊で生じた洪水に押し流されていたことを除いて、その他の直系の親族はこの災害の中幸運にも生き延びていたのであった。あの時父は親族の生死もわからない情況を耐え忍び、全身全霊を傾けて救助活動をしていたなどとは今まで想像も出来なかった。ただ覚えているのは父と一緒に救助活動に行ったおじさんたちが父たちを褒め称えること・・・・
 父たちは丸々三ヶ月唐山にいた。戻ってきたときは真っ黒で、やせ細っていた。戻ると父は地震の状況をいろいろ語って聞かせてくれた。例えば火事のさなかに略奪を図ろうとした人が民兵に捕まり、両手の親指を細い針金でくくりつけられた上木の上に縛られていた事や、亡くなっている人の腕時計を盗もうとして解放軍の兵士に銃で撃ち殺された事などである。luankuanの運転手は如何にして地震の有様を中央政府に報告したか;唐山に入ると建物が倒れて高々と積みあがった廃墟の上にバルコニーとして作られた板に半身押しつぶされている人を見つけたが、廃墟はとても高々としていて手でかき出す事も、ましてや助けを呼ぶ事も出来ず、打つ手が無かった。次第に動きがなくなっている様子が眼に焼きついた。;ひとりの母親が膝まずいている場面に出くわした。大腿部と腹部のところには幼児の為の空間として支えていたのであった。子供はまったく無事であったが、母親は圧死した。;父たちは毛虫と格闘しながら木につるした寝床で過ごした事・・・・・・・等等。唐山大地震の惨状はこのようにして父から一つ一つ臨場感を持って伝えられ、私の脳裏に深く刻まれたのであった。
 30年が過ぎ去った、「地震に打ち勝つ運命」の私は今地震島国に住んでいる。地震とともに暮らす毎日ではあるが、この地の地震対策は整然と完備していて、地震がおきても意外な事にそれほどの恐怖を感じないのである。

あとがき:この文章を書き終えて三時間も経たないとき、四川でマグニチュード7.8の大地震がおきた。新波網の発表によると、現在までのところ北側県では死者3000-5000人、成都での死亡は45人、・・・・。またしても人類が予め備える事の出来ない災害が起こった!この場を借りて被災地の方々の平安をお祈りします。


タグ:地震 唐山
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