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日本の科学者がマンモスを作ろうとしている? [雑感・話題]

 ブログの公開が遅れています。何か面白い話題はないかと、久しぶりに中国サイトを見ていたらこんな情報に出くわしました。
なんでも日本の科学者が五年以内にクローン技術でマンモス象を作り出そうとしているというもの。
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日本科学家计划5年内克隆出一只活猛犸象

    国际在线专稿 据英国《每日邮报》18日报道,日本科学家近日表示,他们计划在5年内用克隆技术创造出一只活的长毛猛犸象。
    猛犸象是在冰河世纪时代存活的物种,已经灭绝了5000多年。日本科学家从俄罗斯研究所中陈列的猛犸象骸骨中,提取出了完整的DNA细胞。科学家计划将其插进普通大象的空的卵细胞中,通过人工手段让其生长、分裂,然后得到一个含有长毛象基因的胚胎。接着把胚胎放进一只母象的子宫中,希望母象能在600多天的孕期后,顺利产下一只小猛犸象。
    研究小组负责人阿基拉·阿里特尼(Akira Iritani)表示,之所以选择大象来培育胚胎,是因为大象是近代物种中是与猛犸象关系最密切的物种。整个研究和操作过程都需要小心翼翼。如果克隆猛犸象顺利出生,科学家还会继续研究它们的基因和生态特征,以此来推断猛犸象灭绝的原因。(海澜)

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 以下拙訳

 イギリスの[毎日郵報]の1/18の報道によると、日本の科学者が近々毛の長いマンモス象を作り出す計画であるとのことである。マンモスは氷河期に生きていたもので、滅亡からすでに5000年を経過している。日本の科学者はロシアの研究所に陳列している像の骨から、完全なDNAを取り出したということである。科学者はそれを現在の象の卵細胞に入れ、人工的に分裂させマンモスの遺伝子を持った胚細胞を得ようというもの。それを象の子宮内に入れて600日の妊娠期間を経てマンモスの小象を得ようというものである。研究の責任者はアキラ・イリタニで大象(アフリカゾウのこと?)を選んだのはマンモスと最も密接に関係した動物であるからとのこと。研究と操作は注意深く行われ、クローンが作られれば遺伝子と生態の特徴を研究し、マンモス絶滅の原因を推定できると述べているとのこと。

日本のメディアでは報じられてないけどホントかしらね


いまだ木鶏たりえず [雑感・話題]

  11/15(月)冬場所の二日目、連勝記録を続けていた白鵬が稀勢の里に敗れ、今回の記録は63でストップした。16日の新聞各紙はこぞってこれを伝えたのは言うまでもない。朝日、中日、毎日、読売と目を通したが、朝日の見出しに目が行った。朝日を除くと単純に白鵬の敗戦を伝えるだけであったが、朝日は「白鵬 木鶏たりえず」と言う言葉を用いていた。恥ずかしながらあまり見慣れていない言葉に???となった。ネットで調べるとどうも産経もこの言葉を用いていたようである。
 木鶏という言葉を調べると、中国荘子(達生篇)にある言葉である。闘鶏のための鶏を育てることを命じられた紀悄子と言う人物が、ただ威嚇を示したり、闘争心をむき出しにする状態の鶏では真のチャンピオンとは言えず、木で作った鶏のように何物にも動じない状態を理想として鶏を育てたという故事に由来する。
 さらにあの69連勝記録を持つ昭和の大横綱双葉山が横綱像がこの木鶏であったという。安芸の海に敗れて、連勝記録が69で止まったとき、知り合いに「ワレイマダモッケイタリエズ」と打電したという話が残っている。
 朝日の見出しはそういった故事と、双葉山の逸話を踏まえたものであった。そこまで分かるとこの見出しはなんと趣がある見出しであり、思わず、さすがは朝日、品格があると思った次第。

 ところで「木偶」という言葉をご存知だろうか。あるいは木偶の坊と言ったりもする。これはデクと発音するが、木で作った人形と言う意味から派生して、何も出来ない、役立たずと言う意味に使われる。木鶏にしても木偶にしても木で作ったもので、動かないと言う意味なのだが、一方は理想像とする意味を持ち、一方は目指すべきでない姿としての意味を持つ。このあたりが言葉を使うことの難しさであるが面白さである。鳩山政権を評価する話に(思いつきの)理想に満ちた考えを持っているが、これまでの首相と異なるのは歴史に学んだ考えが出されていないと言う評価をしているのを見たことがある。言葉を使うのは歴史・文化を学んだ上のことだなあと言うことを、この「いまだ木鶏たりえず」という見出しから学んだと言うのは少し大袈裟だろうか。しかし、それゆえに昨今の歴史・文化に則ることなく、ただのムードで平仮名表記にしようと言う動きは腹立たしく感じる昨今でもある。


尖閣諸島問題余話_かの国の情報統制 [雑感・話題]

 日本には疑問に思ったら自分で調べることも出来るし、そういうことを実行し、ただ与えられるだけの情報には頼らない人もいる。しかし、単純明快なことのみこころよしとし、納豆がいいといったらスーパーに走り、中国が日本の意に沿わないことをしたらけしからんと考える人も少なからず居るのも確かだ。しかし、そういった単細胞的な考えをする人の割合はどうも中国のほうが圧倒的に多いように感じる今日この頃だ。その原因の一端は恐らくその言論統制にあるのだろう。文化大革命の頃の比ではないにせよ依然として強く残っている。ノーベル平和賞に決定した劉暁波さんはいまだ檻の中であるし、授賞式にも恐らく出席できない。完全に彼の口はふさがれている。尖閣問題に端を発した中国国内のデモは、政府本体ではないが一部の人間の指導下に統制をもって行なわれたものであろうと呟かれているし、その訴えは政府本体の意見も代行している為、押さえつけることもなく、ある意味利用している。その姿勢に日本からだけでなく、国際的な広がりを持って避難が広がったとしても、強権で押さえつければ、貧富の差に苦しんでいる老百姓が圧倒的に多い中国にあっては反政府デモが広がる可能性もあり、現在のデモに強権で対応することはありえないと思われる。情報が偏っているから、人々の考えも偏り単細胞化する。隣国にいてもどかしく思う限りである。しかし、中国にも統制を潜り抜けその、同志に向け目を覚ませと訴える人々もいる。その一人が若手人気作家の韓寒さん、10/16のasahi.comによると、彼は自身のブログに、「内政の問題でデモの出来ない民族が、外国に抗議をして何になる。(政府に踊らされる)マスゲームでしかない。」「土地の私有を認められてない民族が、何ゆえに他人のために土地を争うことが出来るのか」などと書き込んでいた。彼のブログの閲覧は4億回を数えるほどの人気で、タイム誌も世界で最も影響力のある100人に選ばれているという。しかしこの記事を見つけた当局によりすぐ削除されたという。

PS:最近また中国の情報統制を見つけました。中国google(以前紹介した中国谷歌です)のホームページからU-tubeを見ようとしたら、その入り口がないのです。従って中国情報を見ようとしたら、例えば日本のgoogleのU-tubeに入り中国語フォントで入力して検索するしかないのが現状です。


タグ:尖閣 韓寒

sp mode [雑感・話題]

 この話はdocomoを使ってない人には関係ない。AndroidをOSに採用しているdocomoのスマートフォンでsp modeの供用が9/1から開始されたというものだ。携帯電話はただ話す道具から、メール機能がついたり、インターネット機能がついたり、国際ローミングサービスがついたりと次々と機能が充実してきた。しかしそれは最初から与えられたもので後は追加しにくい。有る意味では不要なものが詰め込まれている。スマートフォンはデフォルトでの機能は絞られているが、必要に応じてソフトを充実していける。そういったことでガラパゴスである日本を除いてi phooneが急速に普及した。日本の携帯電話の雄、docomoも昨年から本格的にスマートフォン市場に参画した。使いもしないワンセグ機能付きのFOMAに少々あいていた事もあり、ずっと興味を持ってきた。しかしその難点はメールがグーグルメールのみを用いる事にあった。つまり、これまで用いてきた@docomo.ne.jpが使えなくなることである。これはちょっと厄介な事である。それを解消するのが今回のsp modeである(でもおそらくショートメールは使えない?)。これでdocomoのスマートフォンの魅力は増し、メール環境の問題で移行を控えてきたユーザーがスマートフォンに移るのではないかと思う。たしか10月にはxperiaの新機種が出るはずであり、しばらくdocomoから目が話せない。
タグ:sp mode

新しいマーク [雑感・話題]

100819新マークはクローバー…高齢者ドライバー.jpg

 また新しいマークが導入されるらしい。うえのマークはなんでしょう。あれっ、どこかで見たような・・・・、そうだ伊藤園のお茶のマークとそっくりの形だ。マークとか、・・・・リボンとかが湧いてくるこの時代、「どこかで見たような」という印象を持つのも仕方がない。でもこの「どこかで見たような」という感覚は果たして新しいマークにとっていいことなのか悪いことなのか。「どこかで見たような」ということで、安心感を与えあまり反発は受けないのかもしれないが、奇抜さがない分人々の印象には残らない。選考はおそらく、印象を与えるよりも反発を受けないことに重点を置いたのではないかと思ってしまう。
 答を書いてないが、既に御存知の方も多いと思う。高齢運転者を示すマークである。これまでの高齢運転者マークというと水滴をイメージさせる形状に赤・黄色を配色したもので「枯れ葉マーク」という酷評が有名。元来赤、黄色を利用したのは紅葉をイメージしたものであるがこれを「枯れ葉」と酷評されると考案者はさぞかし「芸術を理解しないばか者目」と腹立たしい想いをしたのではないかと想像する。そもそも紅葉は青葉が枯れて落ちていく過程の現象であるから彼はといえば枯葉なのであろうが、枯れ葉と否定的な意味を込めて呼ぶこと自体、今風に言えば植物生態に対する「差別的発言」といえるのではないかと思うがどうだろう。
 いずれにしてもそういった非難を受けたマークの後継だけに印象を与えるよりも反発を受けない選択をしたのも頷ける。形状はクローバー(四葉)を具象化したというが、クローバーを具象化したマークといえば身体障害者の運転する車を思い出す。幸せ、幸運をイメージさせるクローバーだけに無難な選択をしたものと思われる。色使いは若葉から、深い緑となり、黄色、赤と紅葉していくイメージの色のようで単なる「紅葉」イメージで批判されたことを受けた配色のようだ。しかしこういった選択は結局のところ「あれ、何のマークだった?」ということにつながるような気がする。web上のニュース(www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=29639)によると全国5000人のドライバーで新マークを支持したのは42%、旧マークを支持したのは次点で22%(酷評の割りに支持が多い)ということで旧マークも無期限で使用可能となったらしい。中には「マークを買いなおしたくない」という意識もあるんじゃないかと思うが、こうなるとますます「あれ、何のマークだった?」という思いが強くなりそう。


Exotic Switzerland [雑感・話題]

 その昔、日本でexoticというと長崎、しかし人口の数%を外国人が満遍なく住むような現在、あちこちに小さなexotic regionは存在する。海外旅行の楽しみは殆ど全てがexoticという状態に身を置くことにもある。
 そういったexoticismを求めた人々の遭遇した事件でいながらにして文化上のexoticismを経験することになった。勘が良ければもう想像がつくだろう。7/23日本人観光客の憧れのコースであるスイス山岳鉄道の「氷河特急」が脱線事故を起こし、日本人一人が死亡し他に42が怪我をして入院しているという。列車は四両のうち二両が脱線転覆したとのことでかなりの列車事故といえる。そういったニュースが7/24飛び込んできた。この鉄道地域の生活を支える為というよりも地域の観光を支える(結局は生活を支えることになるのか?)為の鉄道である。
 この山岳鉄道日本人のスイス観光では落とせないitemだそうで、スイス観光業界にとってこれは大変だなあ、と思っていたら、25日またびっくりさせるニュースが飛び込む。鉄道会社は転覆車両を撤去後、同区間を3回ほど走り、安全性を確認、国に報告して運転再開の許可を得たので営業運転を再開するとのことであった。勿論これで事故原因の捜査も行わないということではないが、そういったことと観光というビジネスとは別物だということなのだろう。最近何事においても安全・安心が強調され、そういった対応になれた日本人にとっては「えっ」と首を傾げたくなるニュースだったに違いない。日本での最近の鉄道事故というとJR西日本尼崎駅付近での事故、信楽鉄道の事故何れも、事故後テレビ・新聞挙げて事故発生から、目撃情報、救出情報、事故原因推定情報、識者の意見、責任者探し等々延々と報道が続く。とてもじゃないが再開という状況ではないだろう。再開でもしようものなら、「事故原因の特定も住んでないのに危機管理意識欠如も甚だしい!!」と袋叩きにあうに違いない。ところが外国問題となると口をあんぐり開けてざるを得ない。ヨーロッパまで行くとさすがに日本人の常識は通じない。まさにexotic worldである。
 きっと日本の現実のいくつかも海外から見るとexotic worldに違いない。
xotic Switzerland

 その昔、日本でexoticというと長崎、しかし人口の数%を外国人が満遍なく住むような現在、あちこちに小さなexotic regionは存在する。海外旅行の楽しみは殆ど全てがexoticという状態に身を置くことにもある。
 そういったexoticismを求めた人々の遭遇した事件でいながらにして文化上のexoticismを経験することになった。勘が良ければもう想像がつくだろう。7/23日本人観光客の憧れのコースであるスイス山岳鉄道の「氷河特急」が脱線事故を起こし、日本人一人が死亡し他に42人が怪我をして入院しているという。列車は四両のうち二両が脱線転覆したとのことでかなりの列車事故といえる。そういったニュースが7/24飛び込んできた。この鉄道地域の生活を支える為というよりも地域の観光を支える(結局は生活を支えることになるのか?)為の鉄道である。
 この山岳鉄道日本人のスイス観光では落とせないitemだそうで、スイス観光業界にとってこれは大変だなあ、と思っていたら、25日またびっくりさせるニュースが飛び込む。鉄道会社は転覆車両を撤去後、同区間を3回ほど走り、安全性を確認、国に報告して運転再開の許可を得たので営業運転を再開するとのことであった。勿論これで事故原因の捜査も行わないということではないが、そういったことと観光というビジネスとは別物だということなのだろう。最近何事においても安全・安心が強調され、そういった対応になれた日本人にとっては「えっ」と首を傾げたくなるニュースだったに違いない。日本での最近の鉄道事故というとJR西日本尼崎駅付近での事故、信楽鉄道の事故何れも、事故後テレビ・新聞挙げて事故発生から、目撃情報、救出情報、事故原因推定情報、識者の意見、責任者探し等々延々と報道が続く。とてもじゃないが再開という状況ではないだろう。再開でもしようものなら、「事故原因の特定も住んでないのに危機管理意識欠如も甚だしい!!」と袋叩きにあうに違いない。ところが外国問題となると口をあんぐり開けてざるを得ない。ヨーロッパまで行くとさすがに日本人の常識は通じない。まさにexotic worldである。
 きっと日本の現実のいくつかも海外から見るとexotic worldに違いない。


ペットをめぐる最近の話題 [雑感・話題]

 5/14将棋の加藤元名人(これは事象とは関係のないことだが)が自宅の集合住宅で野良猫に餌を与え続け、悪臭などの被害を近隣住民に与えたということで裁判所から集合住宅敷地内での餌やりの中止と慰謝料204万円の支払いを命じられたとの報道があった。裁判は加藤被告の餌を与える「動物愛護の精神」と住民の「人格権」どちらかに重きを置くかという裁判であったようだ。そして後者が勝ったといえる結果だが、ニュース記事を読むとどうも裁判所の判断基準は、集合住宅の管理規則にある「迷惑を及ぼす恐れのある動物を飼育しないこと」に違反するという判断をしたようで、一般的な「餌やりだけ行なって飼い猫としない」ことに対する罰則ではないのがわかる。したがって、加藤被告のほうも「命あるものを大切にする私の信念は変わらず、餌やりも住宅の敷地外で今まで通り続けたい」とのべ、舞台を集合住宅の外に移し、今後もトラブルが続く様相を見せている。保健所は餌を与えておいて飼ってないというのはいただけないとの立場をとるが、このあたりが、裁判所と保健所の考え方に違いがあることがわかる。
 このニュースを、5/17のfm Tokyo 「中西哲生のクロノス」という番組で取り上げていた。パーソナリティ自身も困った問題だとはコメントするものの方向性を示す意見は喋れないようだった。ただこのニュースを元に最近ペットを取り巻く状況を少し喋った。なんでも庭に落ちているペットの毛からどのペットが侵入したかということに1件8,000円くらいでDNA鑑定が利用されているらしい。これを応用して、どこで妊娠したかわからない事件などで疑わしいオスと、子と、メスの三件のDNA鑑定(24000円)で約90%の確率で親子鑑定が出来るようになっており、利用者が増えているといっていた。
  この90%という数字を見て、ペットのことで人間同様DNA鑑定などという高価な試験を行なって、貴重な資源を枯渇してもいいのかと思う反面、「はて、これでいいのか?」と思った。まだ記憶に新しい足利事件に関するDNA判定の問題で、判決のもとになった1991年時点の試験法(MCT118)は二つの個体で同形が出現する確立は1000人に1.2人という確率だった。これはほぼ99.9%の正当が得られるという意味にとれると思うが、昨年の足利事件最新決定のときはこの鑑定の精度が低いということが強調されていた筈である。それなのに90%の確率をもとに親子鑑定しているという。これでトラブルのもとにならないのか?犬猫のことだからそれくらいでいいのか、それならこんな検査しなくてもいいように思うが、なんとなく足利事件同様「DNA鑑定」という言葉が「葵の御紋」で動いているように思うが如何だろうか。この辺が人の営みのいい加減なところである。

口蹄疫騒動 [雑感・話題]

 口蹄疫騒動はおさまるどころか拡大を続けている。伝説の種牛「安平」(人間で言えば100歳)の処分のときは話題だけであったが、わざわざ隔離する形で避難させていた現役種牛五頭のうちの一頭、「忠富士」を処分した段階で、東国晴知事が残りの四頭を含む49頭の処分を猶予するよう国と協議することを申し出た。今日まで伝えられた牛・豚の処分は「畜産農家の財産処分」である程度は金で解決することのができる部分であった為、宮崎県畜産家の損害の代弁者としての発言していればよかった知事が、ここにきて「宮崎県の知的財産」に相当するといってもいい種牛の喪失に対しては「ちょっと待ってくれと言わざるを得なくなったということだろう。
 そもそも騒ぎの根本はどこにあるか?2004.12.1付けの口蹄疫に関する特定家畜伝染病防疫指針というのが、農林水産省から出ている。全てはこの指針に乗っ取って進んでいると考えていいだろう。それによると基本方針の中で、「国内で発生した際には、国際的な本病清浄国の防疫原則に則り、殺処分により本病の撲滅を図り、常在化を防止する対策を実施することが重要である。」と謳われ、患畜および擬似患畜を屠殺しなければならないと示されている。しかし、法律に書いてあるから、指針があるからと屠殺しなければならないというのは少し乱暴で、もう少し科学的な説明が欲しいというのが本音のところである。本年5/23付けで農林水産省が口蹄疫について知りたい方へと言う文書を出している。これを見ても病気の性質として「口蹄疫にかかると、子牛や子豚では死亡することもありますが、成長した家畜では死亡率が数%程度といわれています。しかし、偶蹄類動物に対するウイルスの伝播力が非常に強いので、他の偶蹄類動物へうつさないようにするための措置が必要です」とは書いてあるものの患畜および擬似患畜を屠殺しなければならないと言い切るほどの根拠としては弱いように思います。鳥インフルエンザは現在皆が憂慮するH5N1のような今日独方のウィルスではかつて鳥ペストと呼ばれたように非常に致死率の高い病気でいったん発生すると、買っている鳥そのものがいなくなってしまう危険性があるといみで早く処分する必要があるのは理解できるが、口蹄疫では関知する可能性もあるというより死亡率は数%程度であるとわかっているのに100%の屠殺を求めなければいけないのか?そこのところが釈然としない。www.agr.okayama-u.ac.jp/amqs/josiki/48-9705.htmlに日本獣医畜産大学畜産食品工学科肉学教室の名で、豚に感染すると、発育障害をきたし、痩せこけて食肉としての利用ができなくなると説明されているが、牛に関しては何も書いてない。要は養豚業を保護する為に対策を行う必要があるということなのだろうか?治療法がないから処分するのだとの声も聞こえてくるが、ウィルス性疾患なら殆どが治療薬はないのが普通だろうから説得力を持った説明にならない。その辺のわだかまりがあるからなのか、沖縄県の恐らく農業者のブログ(arinkurin.cocolog-nifty.com/blog)の5/15の記事に「現実にそぐわない家畜伝染病予防法」との記述があり、現実の対応に関しては「殺処分は自然治癒可能な家畜を、治療することもなく放置し、そして殺すだけが防疫という非人道性があるばかりか、現実に起きてしまって初期封じ込めに失敗した伝染病に対しては、殺処分が追いつかないという無力な防疫方法」と揶揄しています。さらに「昭和26年に制定されましたが、実態は戦前の旧法をそのまま踏襲」とかんがえかつての「らい予防法」と同様の愚法であるとの考えを示しています。東国晴知事も多少なりともこのような思いがあるのではないかと思うところであります。
 かつて杉田二郎&北山修のコンビが戦争を知らない子供たちを世に送りました。同時に私たちは天然痘も狂犬病も、寄生虫病も知らない世代です。口蹄疫の怖さというものももう一つピンと来ないのも事実。法律があるから、指針があるからではなくもう一歩進んだ解説が欲しいなと思うこのごろです。明快な説明をしていただける型があれば教えて欲しいものです。余談ですが、「怖さを良く知っている獣医出身の四日市市の諸岡覚市会議員」がブログの中で、国と県の対応のまずさを指摘し、「知事と大臣、腹を切れ」と書き立てて、ブログが炎上したらしいです。

PS:記事投稿後、昼のニュースで山田副大臣が、49頭の種牛の処分問題について、「これに特例を認めたら、示しがつかないので、県としては処分すべし」との発言をしていた。ここで真に必要なのはある対策の実行のその効果に関する根拠であって、「法律遵守」とか「意地」とか「見栄」ではないと思うのだが、公の電波でこのような発言が流され、世の中も「ふむ、ふむ」となんとなく納得しているのことに歯がゆい思いがする。


爆竹の秘密 [雑感・話題]

 今日は朝から家に篭っている。とても静かで、まるで正月のようだ。正月といえば今日2/14は春節、所謂旧正月だ。中華圏はきっと賑やかな事だろう。日本の正月も昔は年の暮れの慌ただしさがうそのように、仕事場が休みで静かな一方、親戚一同が集まり、賑やかな部分があった。しかし近年は“静か”というしかない。これは生活スタイルが変わって、親戚が集まる習慣が薄れた事、人々がテレビを見たり、電子ゲームをしたりと家の中の活動が増えた上、外に出ても移動が殆ど自動車に頼るようになり、歩くひとが少なくなったことなどによろう。ところが中国では今も春節に故郷に帰り親戚一堂集まる習慣が強く残っている。春節の前は中華人民大移動の季節で列車は大混雑(そのうち高速道路大混雑になるだろう)でチケット代も高騰するという。賀年片(年賀状)に書く文句のひとつに「全家団円(家族皆さんが輪になって集まりますように)」と書く文化も理解できる。しかし、中国でも若者を中心に変化が出ているようで先日も(www.chunichi.co.jp/article/world/news/CK2010021102000142.html)で春節おっくう「恐帰族」増加 お年玉の出費、結婚催促イヤという記事を見つけた。結婚の催促をかわす為に一日7000円で恋人を演じる商売が出現しているから面白い。更に今年の春節はバレンタインデー(情人節)と重なっていることでもあり、この商売大流行なのではないだろうか?
 人が集まる習慣以外にも中国の春節を賑やかにしているものに爆竹を鳴らす習慣が有る。騒音とごみのため当局も禁止令を出しているが、押えきれないのが現状らしい。なにしろ日本の十倍以上の人口があり、経済発展の著しい中国の事、2005年の調査ではこの時期に中国国内で使用される爆竹の火薬の量は全て合わせると広島に落とされた原爆の2.5倍のものだそうだ。(出典www.explore.ne.jp/feature/chunjie2.html)そしてその量は年々増えているようだ。記事に当たると北京では06年450tだったのが、09年は燃えカスで2268tとなっているようだ。中国全土でどれくらい?と考えると想像がつかない。
 では、なぜ中国人はそこまで爆竹がやめられないのか。それには邪気をはらうという人々の願いを込めた行事で、2000年ちかく、ずーっと続いてきた習慣なのである。日本で言うと、除夜の鐘、門松、注連縄にあたるようなものなのだ。いくら中国共産党が頑張っても止められないわけである。それを伝える民話が残っている。それによると、化け物(獣)を大きな音で退治して人々に平安が戻ったというものである。そしてその化け物の名前が「年」というものだったとのことだ。04年1/23の中国国際放送でそのあたりを語っているので興味があれば聞いてみて欲しい。この話、なぜかハーメルンの笛吹き男を想起させる。


メディアリテラシーと情報発信 [雑感・話題]

 先日「メディアリテラシー」にかかる講演を聴いた。演者は元朝日テレビの職員で、現在慶應義塾大学講師をしている渡辺真由子さん、その肩書きは「メディア・ジャーナリスト」とある。彼女がテレビ局に勤めていたころ、あるいじめ自殺事件があり、「真相報道こそ、私のmission」という、マスコミ界によくある一方的な観念に駆り立てられいろいろ取材し、いじめ自殺に関する報道をまとめて賞を受ける。その一方でマスコミ報道のありかたがこれでいいのだろうか?という思いが高まり、テレビ局を辞職した。いじめ自殺事件報道の取材者として働くうち報道を被取材者から見たらどうなのかと考え始めていた。一部は報道を利用しようとする人もいるが、多くはmedia側の意図と被取材者の気持ちに隔たりがあり、media側の数が多くなる現象すなわちメディア・スクラムに遭い更なる被害を蒙るという。その後カナダの大学でmedia literacyについて学んだ。その後はマスメディアの内部事情を知るものとして、メディアとその他大勢のあり方について問うプログラムなどを世に問うようになってきた。
 講演の内容は、大学の講演でもなく、おそらくメディア論の入門編を考えたのであろう、ごく一般的な内容であった。すなわちメディア報道には目的がある。欧州でメディアが生まれた背景は無知な人民に事実・教養を与える(啓蒙する)ことにより、社会のあり方を変え、より文明的社会を作ろうとする力が働いたのが始まりだということであった。それゆえに人々を照らすことを暗示する太陽が新聞の名前につく傾向が世界的にあるという。日本の四大新聞にも朝日・毎日があるが、sun-*という新聞も多いらしい。啓蒙する為には情報に対する住民の信頼を得る必要があることからmediaは客観報道という事に傾注し、情報の客観性を喧伝する。下手をすると住民もmediaの情報を盲目的に信用する。
 しかしながら彼女はmediaにはイデオロギーがあり、報道の姿勢も各社で異なる事を改めて表明、こういった違いは新聞では社説に如実に現れる事からそれを読み比べる事をすすめた。mediaにとってのnews valueは国・企業・犯罪など意見や対立の明らかなもの、受けての迎合を得る為の生活密着ネタ、想定外の出来事(テロ・事故など)、暗い話題などが重要視され、それぞれをそれぞれのイデオロギーで味付けする。時に権威者たる専門家の発言を引き出し物の見方の流れを作りその見方を常識化しようとする。しかもこの権威者というのが自らのイデオロギーに見合った発言をする権威者を多数の権威者から抽出したものであるという。つまりmediaは社説だけなら勝手な言い分だろと民衆に思われるところを権威者に代弁させて自らのイデオロギーに住民を染めているという事だ。テレビなどでいつも出てくる専門家はmediaの代弁者という事になるかもしれない。政府の審議会にいつも顔が出る専門家という人もいる。彼らは真に専門的であるひとと、審議会の方向に迎合する方向の研究をして余に出る目的の専門家、俗に言うお抱え専門家という人がいる。
 私たちはmediaとどう付き合えばいいのか。演者は一歩ひいて俯瞰的に眺める事を勧めた。インターネットが普及して出典も、発信者もよくわからないデータも飛び交う現代、情報を処理する為に「客観的に」情報を処理する事の必要性が以前にもまして高まってきていると考えたほうがよさそうだ。たとえば選挙を前にすれば、怪情報と言ってもいいようなものも流れる。非のないところに煙は出ないといわれるように、怪情報もある部分当を得たものもあるが、その情報を強調、面白おかしくする為の操作が行なわれている事が多い。情報発信は住民の啓蒙を目的に始まったが、現代は盲目的信用をそれでいいのか啓蒙する必要性があるともいえる。
 彼女のメディア・ジャーナリストとしての始点はいじめ自殺事件報道にある、しかし彼女はmedia側の人間である。彼女を取材側に駆り立てたものは「取材・報道によって同様事例の再発を防ぐ為」であるといっていた。しかしどうなのだろうか、私にはこのmissionの意義付けは若干驕りに聞こえる。本来的には事件の真実を掴み再発に生かすべきは、警察や司法のはずであり、ある意味mediaはお邪魔虫の部分があるように思う。完全にお邪魔虫と言い切れないのは警察・司法が再発予防といった目的に沿った仕事をしてきてないことにもある。こういった事件におけるmediaの役割は現在のようなものでなく、警察・司法の判断に対する検証であるべきだと思うが、残念な事に読者迎合的な刹那的な事象の報道であったり、警察発表にもとづく過剰な色付けであったりするし、警察もリップサービスとして小出しに情報をleakする。New york timesの没落に見られるように既存のmedia構造の大変化がありうると事も考えると、警察などの持つ機関はその発信を報道にのみ頼り、半ば馴れ合い構造に陥るのを避けるためにも、自らが情報発信力を高めていく必要があるように思う。これは行政機関などにも当てはまると考える。
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