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ボクシング:デンカオセーン・カオウィチット対亀田大毅戦 [テレビ評]

久しぶりの書き込みです。怠けていたわけではないが、少し気を許すと、自分を甘やかしてしまう。でも、私がブログを更新せぬ間にも記事をチェックしていた人がいる事は感謝します。今日の記事は少し皆さんの反感を買うかもしれません。

 今夜、町でボクシング世界フライ級タイトルマッチ(WBA)を見た。タイのチャンピオンデンカオセーン・カオウィチット(33)に対し、日本の挑戦者亀田大毅(21)の試合である。試合はTBSの放送で、亀田の入場に際して、亀田の幟が何本も立ち、弁慶に扮した亀田が、似ては無いが、京の三条大橋に見立てた橋を渡って入場するなど、TBSプロデュースの雰囲気で始まった。店には7人ほどいたが、不思議なほど亀田を応援する人間は一人もいなかった。チャンピオンは33才で、体力的には既に峠を過ぎていて、前半は良かったものの、次第にスタミナ切れで、亀田に押され気味であった。亀田のわざとらしい転倒はくさかったが、クリンチの多いチャンピオンに対しレフェリーが二度も反則を言い渡し、印象としては亀田有利で進んだ。結局、亀田が勝利を収めた。客の反応は「アー、やっぱり負けたのう」というものであった。勝利インタビューで「21年間生きてきて、一番うれしかったです。センスもなく、才能もないと言われてたオレが、ここまで頑張れたのは家族のお陰。オヤジ、ありがとう。21年間、ありがとうございました。2年間、ご迷惑をおかけしました。2年間ホンマに頑張ってきてよかったと思います。皆さん、ありがとうございました」と述べたが、見ていても何の感動も与えない、台本を読むようなコメントであった。これで、亀田家は興毅(23)と並び、世界初の兄弟チャンピオンの栄誉を手にし、TBSはそのスポンサーとしての利権を手にした。
 よく考えると店の中の雰囲気は、不思議な世界だった。話を昔に戻すが、先の戦争で負けた日本はプライドを大きく傷つけられた。そして、力道山率いる日本のプロレスラーがアメリカ(外国)のレスラーに勝つ試合を見て、八百長とは知りつつも溜飲を下げていたものであった。そこには日本を善、アメリカ(外国)を悪の象徴とする世界があった。それが、日本の戦後の高度成長のエネルギーの源であったのかもしれない。しかし時代は移り、ただ日本人というだけでは日本人の支持を受けなくなったことを痛感する試合であった。そこには水戸黄門に代表されるような単純な勧善懲悪番組には騙されなくなった日本人の成熟もあろうし、亀田ファミリーを客観的に見れるようになった日本人、TBSの商業主義を見抜く日本人というものの出現などもあろう。国粋主義の人々にとっては、扱いにくい時代になったであろう。ここに、50年前の日本人がいたら、きっとこのしらけた7人の客を罵る事であろう。
 ここまで読んでくれた人は、わたしがAnti-亀田で有ることは察しがつくとおもう。私が、ただ日本人と言うだけで、応援しなくなったのは実は訳が有る。以前大阪にいるとき、辰吉丈一郎の関係者に関する情報に接する機会があった。極めて横柄であるとのことであった。そして、辰吉自体も横柄で、恐らく朝青龍以上であったと思う。そんな経験が、私を単なる日本ファンでなくしている。それはどうでもいいことだが、ここまで多くの日本人を敵に回し、生きている亀田ファミリーの図太さには敬意を評さざるを得ない。いろいろストレスの有る時代、ここまでの図太さが無ければいけないのかもしれない。そういった意味では見習うべき家族だろう。
 私のブログには読者登録してくれている人はいない、コメントは下ネタを書き込む人間が多い、この記事に対してはきっと「お前は日本人の恥だ」などという書き込みも有るかもしれないが、かなりの日本人は私のようにしらけてこの試合を見たものと思う。


混乱のイラク、法は混乱を抑えるか助長するか? [テレビ評]

暫く記事をアップして無い。頭が回らないのか、もしかしてうつ?うつでは無いだろうが、世の中明るい話題に乏しい。 そんな中、先週テレビを見ながら思ったことがある。

 先週は、9.11から八年ということもあって、その関係者のその後といった内容のテレビ番組が多かったようだ。居酒屋にてそのうちの一つを見た。フセイン独裁政権が米軍の攻撃で倒れた後、多くの住民は民主的な生活を夢見たに違いない。しかし、軍隊の駐留にも拘らず続くテロ事件、当初は何れ収束すると見られていたが一向に落ち着かない。米国の大統領もブッシュからオバマに変わり、何れ米国の撤退も予想されているのが現実だ。その状況にあって、イラク国民のイラク国民による自治はなかなか進んでないらしい。商業は闇商売が横行し、取り締まるべき役所の制度が追いついてないらしい。役所に勤める公務員そのものが薄給且つ不定期給のため殆ど賄賂に頼る生活をしているという。レポートは生活を切り詰めてせっかく大学を出たものも警察・教師などの公務員試験を受けようとするも賄賂無しには受験票そのものがもらえない現実に将来を憂う若者の話から始まった。勿論賄賂を要求するのは公務員そのものではないが、「中間」業者がテレビ撮影という公のメディアが入っているにも拘らず、値引き交渉をする大学生に「金が欲しいのは俺じゃなく、役人なので、俺に値引き交渉をしても全く意味が無い」と言い放つ。そういった社会状況の中では犯罪も多く、司法は大忙しで、流れ作業で裁判が行なわれている。フセイン元大統領の裁判が形式的であったと世界の批判を受けたが、現場の裁判官が今、国の建て直しは健全な司法からとの思いで取り組んでいる姿が映し出された。しかし彼らを取り巻く状況は厳しい。フセイン時代は政権からの介入があり、現在は司法に携わる者が殺人などの対象になっているという。こういう悲観的な社会にあって、ここで司法が後退すれば社会はますます混乱に陥ると思ってか、司法の世界に飛び込んでくる若者も映し出された。彼らはフセイン時代、イラク戦争の時代の不条理さにだけは戻りたくないとの思いでいる。レポートは彼らの心の中には彼らが、ムハラビ法典で乱れた世を安定化させた優秀な祖先を持つという誇りを紹介していた。

 話は変わるが9/16朝日・中日など各紙にインドネシアで所謂姦通罪に石打ち刑を導入する法案が通ったという話が載っていた。少し調べると「石打ち」というのはイスラムの世界では姦通のほかに同性愛などにも適用されることが多いようで、反道徳罪に対する処罰のようである。姦通罪の多くは女性が負うことが多いようだが、かの国の一夫多妻制度を支える法律ともとれる。この法律の成立は伝統的なイスラムの法を守るという考えもあるようだが、穏健派イスラム教徒や人権団体からは反対が上がっているようで、イスラムの世界も一言では語れない。ところでこの石打ち刑、どんなものだろう。受刑者は地面に掘った穴に半身を埋められる。顔に目隠し、或いは袋をかぶされた状態で四方八方から投石を行なうという死刑の方法らしい。イラン出身の女優の話として投石は延々1-2時間に及ぶという考えただけでおぞましい刑罰である。

 私たちは日本にいて自民党が大敗北をして民主党政権になるだけで大変だ、ていへんだどうなんねん、と喋る言葉も何弁かわからない怪しい状態になるが、イスラムに支配されるイランは大変だろう。勿論法による安定化は必要だろうが、かの国の法自体が宗教の大きな影響下にある。そしてその宗教そのものが穏健的というよりも過激な宗派が伸びてきている現状で果たして法が国をまともに出来るかどうか気の遠くなる話かもしれない。


メディアリテラシーと情報発信 [雑感・話題]

 先日「メディアリテラシー」にかかる講演を聴いた。演者は元朝日テレビの職員で、現在慶應義塾大学講師をしている渡辺真由子さん、その肩書きは「メディア・ジャーナリスト」とある。彼女がテレビ局に勤めていたころ、あるいじめ自殺事件があり、「真相報道こそ、私のmission」という、マスコミ界によくある一方的な観念に駆り立てられいろいろ取材し、いじめ自殺に関する報道をまとめて賞を受ける。その一方でマスコミ報道のありかたがこれでいいのだろうか?という思いが高まり、テレビ局を辞職した。いじめ自殺事件報道の取材者として働くうち報道を被取材者から見たらどうなのかと考え始めていた。一部は報道を利用しようとする人もいるが、多くはmedia側の意図と被取材者の気持ちに隔たりがあり、media側の数が多くなる現象すなわちメディア・スクラムに遭い更なる被害を蒙るという。その後カナダの大学でmedia literacyについて学んだ。その後はマスメディアの内部事情を知るものとして、メディアとその他大勢のあり方について問うプログラムなどを世に問うようになってきた。
 講演の内容は、大学の講演でもなく、おそらくメディア論の入門編を考えたのであろう、ごく一般的な内容であった。すなわちメディア報道には目的がある。欧州でメディアが生まれた背景は無知な人民に事実・教養を与える(啓蒙する)ことにより、社会のあり方を変え、より文明的社会を作ろうとする力が働いたのが始まりだということであった。それゆえに人々を照らすことを暗示する太陽が新聞の名前につく傾向が世界的にあるという。日本の四大新聞にも朝日・毎日があるが、sun-*という新聞も多いらしい。啓蒙する為には情報に対する住民の信頼を得る必要があることからmediaは客観報道という事に傾注し、情報の客観性を喧伝する。下手をすると住民もmediaの情報を盲目的に信用する。
 しかしながら彼女はmediaにはイデオロギーがあり、報道の姿勢も各社で異なる事を改めて表明、こういった違いは新聞では社説に如実に現れる事からそれを読み比べる事をすすめた。mediaにとってのnews valueは国・企業・犯罪など意見や対立の明らかなもの、受けての迎合を得る為の生活密着ネタ、想定外の出来事(テロ・事故など)、暗い話題などが重要視され、それぞれをそれぞれのイデオロギーで味付けする。時に権威者たる専門家の発言を引き出し物の見方の流れを作りその見方を常識化しようとする。しかもこの権威者というのが自らのイデオロギーに見合った発言をする権威者を多数の権威者から抽出したものであるという。つまりmediaは社説だけなら勝手な言い分だろと民衆に思われるところを権威者に代弁させて自らのイデオロギーに住民を染めているという事だ。テレビなどでいつも出てくる専門家はmediaの代弁者という事になるかもしれない。政府の審議会にいつも顔が出る専門家という人もいる。彼らは真に専門的であるひとと、審議会の方向に迎合する方向の研究をして余に出る目的の専門家、俗に言うお抱え専門家という人がいる。
 私たちはmediaとどう付き合えばいいのか。演者は一歩ひいて俯瞰的に眺める事を勧めた。インターネットが普及して出典も、発信者もよくわからないデータも飛び交う現代、情報を処理する為に「客観的に」情報を処理する事の必要性が以前にもまして高まってきていると考えたほうがよさそうだ。たとえば選挙を前にすれば、怪情報と言ってもいいようなものも流れる。非のないところに煙は出ないといわれるように、怪情報もある部分当を得たものもあるが、その情報を強調、面白おかしくする為の操作が行なわれている事が多い。情報発信は住民の啓蒙を目的に始まったが、現代は盲目的信用をそれでいいのか啓蒙する必要性があるともいえる。
 彼女のメディア・ジャーナリストとしての始点はいじめ自殺事件報道にある、しかし彼女はmedia側の人間である。彼女を取材側に駆り立てたものは「取材・報道によって同様事例の再発を防ぐ為」であるといっていた。しかしどうなのだろうか、私にはこのmissionの意義付けは若干驕りに聞こえる。本来的には事件の真実を掴み再発に生かすべきは、警察や司法のはずであり、ある意味mediaはお邪魔虫の部分があるように思う。完全にお邪魔虫と言い切れないのは警察・司法が再発予防といった目的に沿った仕事をしてきてないことにもある。こういった事件におけるmediaの役割は現在のようなものでなく、警察・司法の判断に対する検証であるべきだと思うが、残念な事に読者迎合的な刹那的な事象の報道であったり、警察発表にもとづく過剰な色付けであったりするし、警察もリップサービスとして小出しに情報をleakする。New york timesの没落に見られるように既存のmedia構造の大変化がありうると事も考えると、警察などの持つ機関はその発信を報道にのみ頼り、半ば馴れ合い構造に陥るのを避けるためにも、自らが情報発信力を高めていく必要があるように思う。これは行政機関などにも当てはまると考える。

南京・引き裂かれた記憶 [電影]

南京・引き裂かれた記憶_表.jpg 

  題名から想像に難くないと思うが、このフィルムは南京大虐殺に関するものである。中国ではれっきとした政治のひとこまであり、大虐殺をテーマとした記念館が建てられていることを知っている人も多かろう。今年はこの事件を主題とした映画の一つ「南京!南京!」が大ヒットを記録した。その一方で日本の政治では「はたして南京大虐殺は存在するのかどうか」が問題になる。この違いは何なのか、この事件は東京裁判でも認めており、中国史だけではなく世界史上の事件としても存在するのに日本史には存在しない奇異な状態が続いている。
 そもそも歴史には正史と正史ではないが裏の歴史といったものが存在する。大まかに言って正史は妥当な内容だが、場合によっては裏の歴史のほうが正しかったりする。一般に正史は時の支配者が編纂する為、支配者にとって都合の悪い部分はうまい具合に改竄されていることが多い事が知られる。そして、世の中には歴史にはならない歴史がある。つまりその時代に生きた民衆一人一人の個人史であり、これのintegrationが真の歴史であるが、余りにも膨大なデータであり、誰もまとめる事は出来ない。
 しかし日本国内で南京大虐殺の事実を知りたいと思う市民が、ある意味政府に業を煮やし、自らの手で個人史の収拾をし、まとめあげたのがこのフィルムである。素材は日本軍の元兵士、南京開城の生き残り中国人で、それぞれ250人、300人から聞き取りを行なったという。元兵士からはそれぞれが行なった、殺害・強姦・強奪などが語られる。そしてそれぞれが経験した事を全ての兵がやったと仮定するとそれは大虐殺だろうと語る。そして中国側からは無差別殺人を目のあたりにして、なすすべもなく日本軍のするがままになっていった事実が語られる。これら現場で生きた人の話をまとめると南京侵攻は南京大虐殺であったと思わざるを得ないというのが私の感想だ。
 彼らの語る話はショッキングであった。
--------市民を含む無差別殺人はだれの命令だったんですか
「命令なんてそんなもん無い、皆がやるからやったんや。戦争中の命令がはっきりしとんのは、弾の音のせん時だけで、弾の音が聞こえるときはこちらも生きるか死ぬかの問題だ、命令なんて言うとられん。」
「誰かが、天皇陛下の命令だと言っとった。逆らえば軍法会議にかけられるでな」

ここから読み取れるのはどうも殺害ははっきりとした作戦としては実行されず、当時の中国に展開する日本陸軍としては皆殺しというのは当たり前と行った考えが蔓延していたのではないかと推測させる。だから命令があったかどうかは問題ではなかった。当時の日本に関しては軍に対するcivilian controlがなかったことは皆の知るところであるが、軍の内部にあっては○○征服といった大目標は上層部のはっきりとした命令であろうが、個々の中隊、小隊に関するコントロールはまた存在せず、誰が言ったかも分からないような天皇陛下の命令だという殺し文句で兵が動いていたように思われる。それゆえに日本政府の正式文書を調べても大虐殺は無いのかもしれない。また一般市民収容所の人々を集団で殺害した話も出てくるが、その動機は収容施設がいっぱいになったから、生かしておくとまんまを供給しないといけないからといった単純なもので、ナチスのホロコーストが管理された情況で起きたことと対照的である。情況を一言で言うと無秩序といえる。方法もまた単純で、収容した倉庫を丸ごと焼き尽くすといった方法を取った。無差別殺害にどちらが人間的だということも無いであろうが、ナチスよりも非人間的であったと感じる。

---------強姦はどのようにして行なわれた?、どう思う?
「若い盛りの兵隊やでな、嫁の無いものは我慢できたが、嫁の居るもんは我慢できるわけ無い。」
「わしらも死ぬか生きるかの世界に居った出な、人間のすることやない、畜生になっとったわけや。中国の娘らはかわいそうやったと思うけど、そんな時代さな」
「数人で難民のいるところに行って、引っ張ってきて小隊レベルで飼っとった。」
「憲兵も何も言わんし、軍医は中国は不衛生だから注意するようにと性病をチェックしてからやるようにと指示受けた。最初は皆で脱がしてチェックしとったけどそのうち蔑ろになり、病気になった奴が居る。そいつは軍医に注意を受け取った。」
「宿舎でもあったけど、行軍中もあった。その時は背嚢だけはずして銃剣は着けたまました。した後で銃剣で殺害する事もしょっちゅうやった。」

強姦に関しても統制だったものではなく、まさに犬畜生のように好きなようにやっていた事実が浮かび上がる。あるものは自分たちの所有として飼い、あるものは目的を果たすと殺害した。年齢も娘から、ばあさんまで供用したといっている。中国人側の証言では当時8才で強姦されたと言う証言があった。親子並べての強姦、輪姦、母・息子への近親姦の強要等々、ここまでするかというほどであり、おそらく従軍慰安婦問題を遥かに越えた無いようであったと想定される。
----兵士に聞くあなたの小隊が10人いたとして何人くらいしましたか?
「10人くらいやろ」
----それはあなたの隊だけですか?
「どの隊もしとった」
殺害同様大規模に行なわれた事が浮かんでくる。

 ベトナム戦争も然り、イラク戦争も然りだが戦争帰りの兵にPTSDなどの病態が報道される。非人道的行為を行った反動と解されるが、70年という時間がそうさせるのか、不思議な事に証言する人々にそういった雰囲気はなく、あの頃は犬畜生だったという事で自分を納得させているかのようだった。しかし、毎夜南京で虐殺したものの亡霊が殺しに来ると夜中に騒いでいた老人もいたことはいたという。映画で証言に出てくる人々から共通して感じるのは、天皇の名で紙切れ一切れでいつ死ぬか分からない情況に掘り込まれて、まともな人間でおれるわけ無いだろといった精神状況を感じる。それは戦争という生活を自らに課すには必要な反応なのかもしれないが、神風特攻隊や、回天乗組員のまさに御国のためにと言った悲壮な精神状況とは異質である。考えてみたら現代生きる人の倫理観も一様でなく、戦時中の倫理観も一把一絡げにいえるものでないという事であろう。
 南京侵攻からもう既に70年、旧日本軍兵士も、南京の生き残りの人も高齢で、大虐殺があった、なかったなどといった意地を張っている間に次々と世を去る時期に来ている。歴史の遺産としての名も亡き者の遺産の収集は今しか出来ない。そういった意味でこの映画を作るもととなった実行委員会の皆様の活動に敬意を表したい。そして彼らの活動の成果は学問的な意味でなく、個人史の集積から南京で虐殺が行われたということを明らかにしているということだ。


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赤壁 Red Cliff partⅡ [電影]

 080718趙微VS林志玲 誰が赤壁をつまらないものにした?2.jpg小喬

080718趙微VS林志玲 誰が赤壁をつまらないものにした?5.jpg尚香

 この映画partⅠは昨年の秋公開されpartⅡは今年の四月公開となったものである。私は昨年の11/3にpartⅠを、今年の4/19にpartⅡを観ている。実を言うと4/11にも六本木ヒルズにある映画館まで行ったのだが、すごい人でその日は見るのを諦めた経緯がある。それほど人気の映画だということだ。三国志そのものが隣国中国の有名な歴史に基づいた物語である事、近年のゲームそのものに三国志を題材にしたものがあり、若い者も三国志ファンがいることなどによるのであろうか。partⅠの記事を書いてpartⅡの記事を書いてなかったので二ヶ月前の記憶を辿りつつ記録しておきます。
 以前のRed Cliff partⅠの記事でも書いたが、この映画は所謂三国志演義とはストーリーが若干異なる。何にも増して異なるのは孫権の妹、尚香と周瑜の妻、小喬の二人の女性の活躍をストーリーの大きな軸においていることであろう。この二人の女性を前面に出す事で観客をはらはらさせ映画の娯楽性を高める事に成功している。それに反して苦肉計で有名な黄蓋の話は無かった事になっている。(苦肉計とは周瑜が作戦会議でわざと黄蓋を殴り、それがきっかけで黄蓋が曹操軍に寝返ったように見せかけて曹操軍の船に火を放つ話)、映画の中では黄蓋が周瑜に「私を殴ってください。あなたがひどい奴だといって曹操軍に寝返るふりをします」と申し出たところ、周瑜が「あなたのような老人を殴るなどという事は出来ない」と軽くいなしています。このように本来の三国志にある有名な話をデフォルメするとともに新たな逸話を挿入したストーリーにしています。partⅠ編でも書いたように中国映画独特の大量のキャストを用いた合戦の場面描写はとてもわくわくする映画です。映画に流れる躍動感とスピード、ずーっと昔の元気だったハリウッド映画のダイナミズムを感じることができます。勿論苦境に立つ男たちの一致団結した力が曹操を負かすといった話は我々を元気付けてはくれます。しかしこの映画の醍醐味はそんな教育的なことよりもダイナミックな物語の展開にあると思います。どこか教育的な啓示を含むラストシーンはえーっ、それはないやろという終わり方ですが、私たちの忘れていたまさに活劇を体験できる事と思います。私も含めてこの映画を通して三国志に興味を持つ人が増えるのではないかと思います。中国武術に興味の無い方も必見ですね。

PS:Red Cliffの成功で中国では歴史物語の映画化という動きが出てきているようで、この六月東京で大秦帝国という弱小国秦を一大帝国に育て上げる映画が封切りになった。これも上下二巻の映画らしいが観てみたいものですね。


タグ:赤壁 Red Cliff

新型インフルエンザ狂想曲

 四月に新型インフルエンザが発生して国・自治体あげて既に用意してあったマニュアルに沿って一斉に動き、それに呼応するかのようにマスコミが加わってこの二ヶ月近くインフルエンザ狂想曲が奏でられた。死亡率60%強というH5N1を想定して作られた新型インフルエンザ対策であったが、裏をかくようなH1N1の発生で、大阪・神戸で発生した当初から首長を先頭に既定のマニュアルは今回のインフルエンザの病態にそぐわないという意見が出ていた。そして6/19施行日を定めない形で新たな指針が出された。あくまで秋の第二波に備えてとのことだが、対策の主眼は感染の封じ込めではなく、重傷者等の医療の確保に軸足を移した事になっている。しかしこの意向に時期が明らかでないことが現場で混乱をきたしている。一方で極度の感染防御を取るところがあるかと思えば、極めてゆるい措置を取るところがあったりする。まさに狂想状態である。
 6/15(月)三重県で患者発生、患者は愛知県の東海大学学生で名古屋に居住するが12日(金)夜帰省してからの発生であった。東海大学では既に患者が出ていて休校措置が取られていた。発症は13日であるが、当初はインフルエンザの反応が無く「かぜ」とされていたが、再検により15日新型インフルエンザを確認。両親が小学校に勤務しているとの理由で休校措置が取られた。常識的には濃厚接触者となった両親が学校で児童生徒に接触している可能性は少ないが、休校措置が取られたとある。ネットで見ても児童生徒との接触については何も触れられておらず、両親が学校勤務だから休校だというように見てとれる。些か過大反応のように見える。
 6/19東京で確定診断を得た奈良県桜井市在住の男性が6/19に厚生労働省が出した新たな指針に基づき入院による隔離でなく自宅療養で十分と判断した。これを受け男性は19時頃新幹線という公共交通機関で関西に向かった。19時30分頃、東京からの連絡を受けた奈良県は、新幹線車内での「撒き散らし」を憂慮、せめてグリーン車にと提案したが後の祭りであった(勿論その費用負担についてはマニュアルにかかれておらず、おそらく男性患者の負担になるであろう)。しかしなら県は感染拡大の阻止に動いた。通常なら京都で新幹線を降りて近鉄電車でならに向かうのが普通のルートであろうが、奈良県は京都駅で男性を待ち受け県の責任でならまで患者を移送し、感染症指定病床に入院し、感染の拡大防御を行ったという。既に43例を経験している東京都と、いまだ県内発生は一例のみの奈良の反応がちぐはぐになってしまっている。しかし東京がまるで季節性インフルエンザと同様の措置を取っているかというとそうでもなく、早稲田大学では二人の患者が出た事を受け300人を自宅待機にしたと20日のニュースにある。はたして奈良県の患者の乗った新幹線車内にいた人々の降り立った自治体はこれらの「濃厚接触者」をどう扱うのであろうか。また一方で自宅待機を指示され、一方で感染拡大の阻止目的で感染症法にのっとり入院加療を勧告された男性の胸中は如何に?
 確かに軽症者は自宅待機でよしという指針は示されたが、交通の手段は何を使ってもいいというような、季節性インフルエンザ対策同様の指針が出たわけではない。つまりまだ蔓延状態と国は認めてないわけである。したがって個人的には自宅待機措置を決めた東京の判断は間違いではないが、患者に問診し公共交通機関で帰るということであれば、感染症法の勧告によらない東京都の一般病床への患者負担による入院、しばらく東京都内ホテルでの静養、家族による自家用車の出迎えなどを進めるのが筋でなかったかと思うがどうであろう。今回の行動は廃棄物を他府県に持っていくような対応であったと東京が非難されてもしかるべきかと思う。もっとも国が蔓延状態を宣言すれば一般交通機関の利用も許されるであろう。しかし今回の事件で明らかになったことは少なくとも東京都においては新型インフルエンザと診断された患者が、JR線や東京メトロなど混雑する車内で移動しているという事であり、都民もそれを受け入れなければいけない?ということだ。
 こういった混乱は今回のインフルエンザの病態が想定外であったことと、それを受けての対策がキメラのように存在している事にある。国は、情況をもう少し説明した後で指針を示すべきで、今回のように突然の指針を出すべきではないのではないか。まず、患者の治療に対してはどのような重傷度から入院、それ以下では自宅療養といった指針を出すべきだ。そして感染拡大防止措置は患者を感染症指定病床のような隔離どの高い病床での入院、一般病床での感染拡大防止に配慮した入院、自宅待機といったレベル設定をして今はどの段階でいいということを示すべきだと思う。軽症は自宅待機でいいという判断をする以上、入院も特に陰圧措置をとった指定病床で無ければいけないという情況ではないはずだが、そのアナウンスが未だ無いのは不思議な状態だ。感染拡大防止措置で交通の手段としては当初の案では公共交通機関を避ける事が謳われていたが、これも指定席に座る状態(少なくとも混雑ではない)からよいとする等、段階的に解除していくべきではないか。対策はえいっやーとだせるが、その解除をいかにソフトランディングに持っていくかについてももっと研究すべきだ。その拙い際たるものが今回の6/19の指針の発表だと思う。住民の側も全てを行政の責任にするというのではなく、もっと自主的にモラル(エチケット)を身につける必要がある。自宅待機でいいといわれても、それは入院(隔離)をしないといわれただけのことであるから、自分の住居が東京で無い事を明確に表明し、交通の方法を相談するなり、自動車で帰ることを思いつくなりすべきである。発熱外来を受診するに当たって、患者のつけるマスクについては誰が負担するという規定も無く多くは病院の持ち出しとなっているようである。受診した患者にマスクのコストを依頼したらそれだけで病院クレイマーの思うつぼだという話を聞いた事がある。新型インフルエンザが危惧されるこの時期、呼吸器症状があって病院(医院)という公共的施設を訪れるならマスクのコストは自己負担が当たり前というモラルが育つべきである。そういった常識が育てばclaim自体が意味を成さなくなる。それは今喫煙禁止地域で煙草をすっているのを注意されてclaimを言う人間が殆どいなくなったのを見れば分かる。

インフルエンザと休校と高校生とカラオケ

 新型インフルエンザがメキシコで発生以来、検疫当局は懸命の水際作戦を取ってきた。一人の高校生が検疫を行なう中で引っかかり新型インフルエンザの初めての症例がでると、その濃厚接触者に停留措置がとられていた。そうこうするうち神戸では海外渡航歴のない高校生が新型インフルエンザの診断を受ける事態が発生し、瞬く間に神戸・大阪の患者が見つかった。これをうけ行動計画にしたがって高校、中学校などの教育施設が一斉に休校措置を取った。新聞、テレビ等メディアもこれを大きく報じた事は皆知っている事である。休校措置の取られた5/18以降とんでもない記事が飛び込んできた。高校生が休校を利用して大挙カラオケ店に押し寄せたというものだ。
mainichi.jp/select/science/news/20090519ddm041040073000c.html, www.zakzak.co.jp/top/200905/t2009051934_all.html, www.j-cast.com/2009/05/19041432.html, www.asahi.com/national/update/0519/OSK200905180132.html, www.sanspo.com/shakai/news/090519/sha0905190505005-n2.htm
www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009051900954
zakzakの記事によるとネット上に《休校になった♪》《じっとしてたら損だからユニバ(ユニバーサルスタジオ)遊びにいきまーす!》などの書き込みが見られているという。カラオケ店に帰れという権限も無くマスクなどしてない高校生に対し、店側はマスクをして接待(対抗)したとのこと、関係者に歩道を頼んだとのことである。思わぬ展開に社会的責任を感じたカラオケ各店は入店時休校対象校でないか確認の学生証提示を求め、休校中の入店を遠慮願うよう張り紙を始めたという展開である。厚生労働省は「感染防止処置で感染を却って広げる事になればしゃれにもならない」と半ば呆れ顔だが、当の高校生は「暇でしょうがない」「学校で感染した人はいないのに、自宅待機は理不尽」「あまりにも暇だぞ。自分の学校で感染者が出たわけでもないし、こっちは(インフルエンザ休校の代わりに)夏休みを削られるんだぞ」
「同じレジャーでも、社会人は『○』で学生は『×』という。これは差別としか言いようがない」
「(遊びに行けないのなら)学校行きたい。だって、どうせ補習で夏休みが減るんだから」
など不満も出ている。
 今回の休校措置だが、新型インフルエンザが発生し、その行動計画などに沿って「社会の利益の為」関係者がある種苦渋の選択として行ったものだが、当の高校生はそういった社会の動き、役割というには全く無関心で「自らの欲望」にしたがって行動していて「社会の一員」としての役割に関しては無頓着そのものである。ついこないだのハリセンボンの結核騒ぎで「結核ってまだあるの」と理解不足を呈した大衆であったが、それを契機に学習し、不特定多数の人の集まるサウナや多数が密室に集合し、大声を出すカラオケ室の危険性を知るいい機会になったはずである。ニュースはそこから学ぶ事がなければただの噂話にしかならない。どうやら義務教育を終え自ら選んで「高等教育」の学府である高等学校に進学した彼らは一般人にもましてハリセンボンから何も学習できなかったようである。こういった学習能力のない人間が、高等教育を理解できるのか不安になる。
 おりしも法制審部会が民法上の成人を18歳にする答申をまとめる見込みになる情報も入ってきた。毎年繰り広げられる成人の日の荒れた風景も思い出しながら、果たして社会の一員として最低限の役割をこなせるのか?大丈夫なのかとも思うがどうでしょう。(ただし、飲酒・喫煙などは成人になればいいという決まりではなく、二十歳にたっせればいいという事なのでこの民法上の成人とは関係ないらしい)
 以上インフルエンザ事件で露呈した未熟な高校生の話題ですが、もちろんこれらの高校生に対し、
「遊びに出歩いたら感染者の数が膨れ上がるじゃないか」
「たった一週間、自宅待機ができないなんて同じ高校生として恥ずかしい」
といった、成熟したこうこうせいのいけんもあるし、
「そんなガキは家族もろとも片っ端から強制収容所に入れてしまえ。そうすれば世の中少しは良くなる」
といった過激な書き込みもある。皆さんはどう思うでしょうか。

公の空間でのプライバシー???? [随想]

以下はJ CAST ニュースというホームページの記事を拝借、まずは一読

http://www.j-cast.com/kaisha/2009/05/15041150.html
満員電車で「メール打つ人」 他人の目を気にしすぎ?
2009/5/15              
   昼下がりの某私鉄車内。ぎゅうぎゅうの混雑というほどではありませんが、つり革は全部埋まってる感じです。
「ちょっと、やめてください!」
   大声ではないですが、ハッキリとした女性の声が響き渡りました。車両の中程、立ってケータイを操作していた若い女性です。

車内に一瞬、緊張が走ったが……
「どうしたの?」
   痴漢かと思ったのでしょう、近くにいた主婦が女性に声をかけました。
「いえ、この人がメールを覗いてるんです…」
   一瞬、緊張が走った車内も、これにはガックリでした。

   実は、筆者もメールを打っている女性から睨まれたことがあります。別にメールを覗き見していたわけではなく、ホームで電車を待つ列に並んでいたときのこと。
   ボーッとして向かいのホームを所在なく見ていたのですが、前にいた女性は視線が気に障ったのでしょう。
   座っているとき、立っているとき、どちらにせよ、ケータイを操作していると、隣の人の視線が過剰に気になるのは、筆者も体験から知っています。
   なかには、実際にメールを覗き見している人もいるかもしれません。しかし、大半は特に覗き見をしようとしているわけではないような気もします。

プライバシーへの過剰反応はトラブルにつながる
   たしかに、ケータイの画面内はプライベート空間でしょう。でも、電車内などは「公」の空間です。
   公空間のただなかでプライベート空間を開くということは、ある程度は他人の目に晒されることを想定するべきなのではないでしょうか。

   とはいえ、どこででもケータイのメールを打つ自由が、誰にでもあります。プライバシーを守る権利も、誰にでもあります。
   そもそも混雑している場所でメールなんか打つ方が悪い、というのも正論でしょうが、どこでメールを打とうが勝手じゃないか、というのも間違っていない。

   さて、みなさんはどのように考えていらっしゃいますか?

   そうそう、最近のことです。近くの無人ATMに大行列が出来ていました。何事かと思って近くに行ってみると、実は5人しか並んでいません。
   床には次を待つ人用の場所が矢印で書かれているにもかかわらず、次を待つ人がATMを操作している人と2メートル以上も間を取っているために、大行列に見えてしまっていたのです。

   スキミング被害、あるいはその誤解を恐れてのことでしょうが、過剰すぎると思いました。50センチも離れれば、暗証番号を操作する手元なんて、まったく見えません。
   犯罪を抑止しよう、プライバシーを守ろうとする気持ちが多くの人にあるということは大変良いことではありますが、過剰すぎると別の不便やトラブルにつながる気がするのです。
   さて、どうでしょう?

井上トシユキ
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 どう思うでしょうか。最近はやたらとプライバシーの侵害という言葉がもてはやされて、どちらかというとプライベートでない空間にまでプライバシーが設定されていて、かえって不自由を感じる事が多くない(ここでいうプライベートとは本来の意味で、以前批判した用い方ではない)。そもそも電車という公の空間にプライベートな空間を設定する事自体ばかげた事と思うのだがどうだろう。そんなところでメールをしていて他人の目が気になったとして被害者意識を持つこと自体被害妄想という性格異常なんじゃないかと思う。たいていの人間はそんなもの見てないし、携帯電話の向こう側の景色や、携帯しているこの口紅が唇を超えてはみ出ている事を発見したり、口元にご飯粒がついていたりしてみているのかもしれないし、その向こうにいるきれいな娘を見ているのかもしれない。大体この記事にも書かれているようにたとえ見ていたとしても、他人は何を考えているのかと想像するのは人の好奇心のひとつで公の空間でそれをさらけ出している以上見られて文句を言うほうがおかしいと思う。作者も「もしかしたら、痴漢?」と思ったと書いているが、この女も場合によっては狂言痴漢と騒ぎ立てるかもしれないと思うと怖い話。それだけ今の社会はどこか病的なプライバシー尊重の時代にあると思うがどうだろう。そのうち顔を見ただけで(ガンをつけただけで)プライバシー侵害だといいかねない、それなら中東の国のように布で顔を隠せといいたくなるだろう。電車内で打つメールがプライバシーというなら何かで囲ってメールでもしやがれというのが本筋だろう。
 公の空間にプライバシーを設定する必要があるとすれば檜町公園で全裸になっても「ここは私のプライベート空間だ、何が公然わいせつだ」という理屈が立つというのは言い過ぎとして上の記事にあるようなプライバシー感覚は辟易する。こういった公の空間でプライバシーが存在すると言った誤解で生じている社会的現象は電車内の化粧、大音量のヘッドフォン、大声の談笑などがあろう。電車内の携帯電話の使用がエチケット違反とされて久しいが、問題なのは電車内で電話をすることではなく大声で話す事である。電車内で携帯電話で話す事より、周囲を気にせず大声で話す事のほうがずっと罪深いと思うがいかがだろう。
 上海-蘇州間の電車で他人の見る新聞にぐっと顔を近づけ読んでいる人を嫌がる事もせず、堂々と読ませている様子は懐かしいような、笑えるような光景であったのを思い出した。勿論この場合、盗み見をしている人が記事の途中まで読んだところで持ち主がページを変えても文句は言えない。   昔の列車内では新聞をばらばらにして他の人にも読ませている光景があったように思うが、そんな人々の余裕を中国に感じるのである。


新型インフルエンザ①---表現を巡って (②以降続くかどうかはわからない) [雑感・話題]

 去る4/24メキシコで800人余りの豚インフルエンザウィルス(H1N1)の人感染を疑う例があり、60人が死亡しているといったニュースが世界を駆け回った。4/25には米国においても患者のいる事が分かり、メキシコ渡航者を中心に患者はカナダ、ニュージーランドに広がった。4/27(日本時間4/28)WHOはこれまでphase3としてきた人インフルエンザの段階をphase4とすることを発表。4/30には米国でも感染が広がっているとの判断から一気にphase5となった。それに合わせて私たちも慌しい動きをしているのが現実である。実際のところ鳥インフルエンザH5N1を巡り交わされた討論はなんだったんだといった思いである。まだ事件は小康を得ていず、これをまとめる時期ではないのでここまではただのprologueとして考えてもらいたい。
 当初豚インフルエンザのヒト感染と表現していたものがphase4となってきた事で日本語では新型インフルエンザと表現するようになった。英語圏ではsuper (bird) fluと表わしていたように、今回もswine influenzaと表現してきた。日本でも二月に愛知県でウズラの鳥インフルエンザ感染が発覚して以来、食材としてのウズラ卵を排除する動きがあり、これに対して卵では感染しないといった後方が盛んに行なわれた事は記憶に新しい。こういったことは世界のどこでも起きるようで「豚インフルエンザのヒト感染」の報道を受けて、豚肉の流通が大きく落ち込んだ。関係者の広報も効果が無かったばかりか、メキシコ産豚肉の輸入禁止措置を国家レベルで行なう国も現れた。
 4/30,WHOはこれまで豚インフルエンザ(swine influenza)と表現していた事を改めてインフルエンザA(influenza A)と表現すると決定したとの報道があった。豚肉消費の多い中国でも消費落ち込みが見られ5/1それまで猪流感(中国語で猪と書けば日本語の豚をさす)の表現を甲流感(甲肝炎、乙肝炎といえば日本語ではA型肝炎、B型肝炎のこと)に変更した。しかし豚肉の値段は一気に60%も下がったという。折からの世界的不況もあり、WHOをはじめ保健のセクターが経済的判断をしたことになる。これまでの鳥インフルエンザ表現を続けてきたこととは大きな違いであり、養鶏業者などはどう感じていいるのか少し気になるところである。いずれにしても豚肉は嫌われだした。メキシコ産豚肉の輸入禁止措置を出した国を相手取りWTOに提訴した。
 豚を取り巻く動きは他にも出た。5/4エジプト(ここは今年になり鳥インフルエンザが多発した事で覚えている方もいよう)では豚インフルエンザ蔓延を予防するとの名目で政府が国内の飼育豚の全頭処分を決定し実行に移したところ、養豚業者と政府役人の間で争いが生じ、治安部隊の出動する騒ぎになったものとのことである。この背景には宗教的に大多数のものが豚肉を食べないイスラムの国にありながらも少数の豚肉を食べるキリスト教の信者がいることに起因するようだ。鳥インフルエンザと違い、同類の中で致死的経過をとりつつ急速に広がるわけではない、感染の有無さえ分かりづらい豚の全頭処分を決めたのは科学的判断というよりも宗教的独断のようで、当地のキリスト教徒(かの地ではスラムに住んでいるという)には気の毒な話だ。もっとイスラム色の強いイラクにあっては、養豚業は存在しなかったようだが、動物園で飼っていた猪三頭が政府の命令でインフルエンザ対策の一環として処分されたという。このような動きは宗教的独断というか、習慣の違いから来る偏見的行動というか、ある動物の命をどうするかという事に関して、日本・北欧国などの捕鯨国と米・仏など反捕鯨国との捕鯨に対する意見の相違とどこか似ている。

 そして今日、カナダ帰りの高校生ら三名が日本の地で新型インフルエンザと診断された。検疫での診断のため分類としては国内発生とはならないらしい。しかし国内発生例が出るのは時間の問題となってきたようだ。検疫にかかる人員の問題もあり、水際作戦の効果に対して限界が近づいてきた事もあり、本日麻生首相が水際作戦を徹底的に継続するような事を言ってはいるが、専門家は主力を水際作戦から医療にシフトする事を検討している。

こういった実際の動きはさておき、今回の呼称変更については疑問点を持っている。influenza A(インフルエンザA)のAはいったい何を意味するのだろうという事である。今回のH1N1新型インフルエンザも、先日まで騒いでいたH5N1インフルエンザも、さらにはソ連風邪や、アジア風邪、香港風邪、スペイン風邪とよばれるインフルエンザも含めて全てA型インフルエンザである。その呼称で他のB型インフルエンザ、C型インフルエンザと区別し、そしてA型ウィルスのH(hemaglutinin)およびN(neuramidase)の型が変化していろいろなウィルスに変化すると話をしてきたわけである。そういった事情を知ったものの中では混乱は起こりにくいかもしれないが、住民に「A型インフルエンザではあるけどインフルエンザAでない強毒型鳥インフルエンザH5N1は・・・・」といった説明は混乱を招くのではないだろうかと危惧する。インフルエンザAなどという意味の分からない表現をするより、これまでの歴史に倣ってメキシコインフルエンザと表現するのが自然ではないか。そうする事によって現在中国-メキシコ間で出入国制限問題でもめているような自体が多発するというのが心配だというなら、日本語のように「新型インフルエンザ」といった動物を早期させない、ある種わけの分からない表現を当面使うほうがいいのではないか。それともinfluenza AのAはAmerican continentの頭文字なのだろうか????いずれにしてもうまい表現とは思えない。


自己都合による子供の学校欠席の是非について [随想]

 小学校に在籍する子供が怪我をした云々で受診する事が時々ある。創の処置を終え次回受診の指示をうける。これがweekdayの通常診療時間だと、「学校を休まんとあかん、五時ではあかんのか」などと文句というか、要求をしてくる親がいた。この怪我が学校内で受傷したものだったりすると、医療費負担そのものも公的機関から出される事もあって、受傷したこと自体に被害者意識を持つのか、さらに要求が強くなる。熱があるとかいった自覚症状のある病気だと問題はないのかもしれないが、外傷はややこしい。特に前述の公的負担制度などがあると、気持ちの上で「顧客」意識が出てサービスの提供を求めて当然という意識になり、双方の信頼に基づく契約の上でのサービスを提供する診療の場での意識にずれが生じる。傷を治してもらっているといった意識は何所にあるのかと疑いたくなるものである。こういった利益を受けているのだという意識の欠如が現在の医療不信のベースのひとつを形成していると思う。
 このまま文章を続けると現在の医療を取り巻く問題という深みに入っていくので話は止めるが、ここで提示したいのは親は子供が学校を休む或いは休まざるを得ない情況に置かれるという事は不利益と考えるという事である。(医療者は不利益には違いないが、医療を受けられない不利益と比較すると学校を休む不利益のほうが小さいと考えるが、そうでない親がいるから関係がギクシャクする)

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そこでつぎの投書を見てもらいたい。出典は読売新聞Web版の発言小町三月三日の投稿文です。URLはhttp://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0303/228095.htm?g=01

  一地方都市で英語教室をやっているえいこです。
 教室にやってくる小学生が、「東京ディズニーランド(または沖縄旅行、など)に行くの」と言い、レッスン休むことがこの地方都市でもしばしばあります。それもたいてい2泊3日くらいのスケジュールで、飛行機利用のツアーらしいのですが、それが土日をはさんでの金曜日または月曜日を休む、というのではなく、火、水、木といった週の真ん中、またはあと少しで夏休みなどというときなのです。つまり、夏休みや週末はツアーが高いため、平日の安い時に学校はまるまる休んで旅行するのです。
 「学校にはなんていうの」と聞くと、「旅行に行くって言ったよ、先生はそう、と言ったよ」というので、時代は変わったなあと思いながら、こういうのは最近は普通のことなのだろうか、と思うのです。
 わたしが子どものころは、学校を休むとそこの勉強がわからなくなるから夏休みなどに旅行はしていたのですが、学校を休んで家族旅行をする、というのがいまひとつわかりません。こどもの話にどうリアクションしたらいいかいつもちょっと困るのです。
 お子様に学校を休ませて旅行をさせますか、させませんか?お子様をお持ちのおかあさんたちに、その気持ちをおたずねしたいです。学校の先生の対応はどうなんでしょうか?

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 要は自己都合が子供を義務教育に通わせる事より優先するのは普通かどうか?といった疑問の投書かと思います。しつこく言い換えるなら義務教育でなかったら、国費のお世話になってないという意味では自由性もあるが、義務教育という他所様(国)の出しているサービスをどぶに捨てる事は自己都合の前には仕方が無い考えが普通か?という疑問です。最初に書いた医療を受ける為に学校を休まなければいけないのは不利益だという考えの親の存在とあわせると、果たして親の教育にかける思いの基本はどこにあるのだろうかと分からなくなるのです。この発言小町の記事に対する書き込みは概ね肯定的な意見が多かったのにも驚きました。皆さんはどう思うでしょう。これも国家による教育の保証が行われ続けた結果、義務の部分を忘れて権利だけを意識する住民の増加という意味で先の医療現場での???と根を同じくするものではないかと思うのであるが。

 最後に2000年11月のスキー場での記事を転記します。実はこの事件が起こったとき、マスコミが被害者となった中学生をかわいそうと思わせる為の情緒的報道で「かわいそう」といった感情を国民に植え付けようと煽る報道目立った。しかしわたしはその一方で「そんな事より、なんでこの時期中学生がスキーをするために外国におるんや」と思い変な世の中だと思っていたことを思い出した次第。自己都合で税金の大いなる恩恵により出席をさせてもらっている、学校を欠席するのが平気な時代、どう思うだろうか。これ等の親は「税金は俺らがだしているのだ、どこがわるいねん」と考えているのに違いないのだが、どこか権利と義務を履き違えているに違いない。

毎日11/13 22:40 <余録>ケーブルカー火災
 オーストリア・アルプスのキッツシュタインホルン山(3202メートル)。キッツは子ヤギ、シュタインは石、ホルンは峰の意味だから直訳すれば石の子ヤギ山というところか▲キッツは英語でキッド。複数形キッズは子どもや若者を指す。その子ヤギ山のトンネル内で起きたケーブルカーの火災事故。乗客の大半は若者という。事故車両に福島県猪苗代中学スキー部の生徒5人、慶応大学スキー部員2人を含む日本人10人が乗り合わせたようだ▲ケーブルカーはキッツシュタインホルン山のふもとの駅(標高911メートル)と終点(同2452メートル)を結んでいる。山の斜面をくりぬいたトンネルを走るから「山の地下鉄」の異名がある。ふもとの駅からトンネル入り口を見るとさながらジェットコースター▲スイスのユングフラウ鉄道のクライネ・シャイデック駅(2061メートル)からユングフラウ駅(3454メートル)間もアイガーをくりぬいた全長7122メートルのトンネルの地下鉄仕立てだが、こちらはもっぱら観光用。子ヤギ山のほうは座席はなく、スキー客を立ったまま運ぶ運搬用だ。2両とも満員だった▲非常事態が発生し、ドアを開けようとしたが開かない。

屈強な若者がスキーのストックでガラスを破り、脱出口をつくった。「下のほうに行けばいい」と叫んでそれに従った人もいたが、逆に上のほうに行った人もいたと負傷した生存者が証言している(独仏のテレビニュースによる)。とっさの判断が生死を分けた。日本の子どもの場合、言葉がわからないからなおさらまごついたことだろう。かわいそうに▲いい記録を出すため、中学生などジュニア選手の間で海外合宿は当たり前になっているという。個人で出かける選手も珍しくないそうだ。国際化はここまで進行した。同時に事故の国際化もいや応なしに進んだ。[2000-11-13-22:40]


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