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ボクシング:デンカオセーン・カオウィチット対亀田大毅戦 [テレビ評]

久しぶりの書き込みです。怠けていたわけではないが、少し気を許すと、自分を甘やかしてしまう。でも、私がブログを更新せぬ間にも記事をチェックしていた人がいる事は感謝します。今日の記事は少し皆さんの反感を買うかもしれません。

 今夜、町でボクシング世界フライ級タイトルマッチ(WBA)を見た。タイのチャンピオンデンカオセーン・カオウィチット(33)に対し、日本の挑戦者亀田大毅(21)の試合である。試合はTBSの放送で、亀田の入場に際して、亀田の幟が何本も立ち、弁慶に扮した亀田が、似ては無いが、京の三条大橋に見立てた橋を渡って入場するなど、TBSプロデュースの雰囲気で始まった。店には7人ほどいたが、不思議なほど亀田を応援する人間は一人もいなかった。チャンピオンは33才で、体力的には既に峠を過ぎていて、前半は良かったものの、次第にスタミナ切れで、亀田に押され気味であった。亀田のわざとらしい転倒はくさかったが、クリンチの多いチャンピオンに対しレフェリーが二度も反則を言い渡し、印象としては亀田有利で進んだ。結局、亀田が勝利を収めた。客の反応は「アー、やっぱり負けたのう」というものであった。勝利インタビューで「21年間生きてきて、一番うれしかったです。センスもなく、才能もないと言われてたオレが、ここまで頑張れたのは家族のお陰。オヤジ、ありがとう。21年間、ありがとうございました。2年間、ご迷惑をおかけしました。2年間ホンマに頑張ってきてよかったと思います。皆さん、ありがとうございました」と述べたが、見ていても何の感動も与えない、台本を読むようなコメントであった。これで、亀田家は興毅(23)と並び、世界初の兄弟チャンピオンの栄誉を手にし、TBSはそのスポンサーとしての利権を手にした。
 よく考えると店の中の雰囲気は、不思議な世界だった。話を昔に戻すが、先の戦争で負けた日本はプライドを大きく傷つけられた。そして、力道山率いる日本のプロレスラーがアメリカ(外国)のレスラーに勝つ試合を見て、八百長とは知りつつも溜飲を下げていたものであった。そこには日本を善、アメリカ(外国)を悪の象徴とする世界があった。それが、日本の戦後の高度成長のエネルギーの源であったのかもしれない。しかし時代は移り、ただ日本人というだけでは日本人の支持を受けなくなったことを痛感する試合であった。そこには水戸黄門に代表されるような単純な勧善懲悪番組には騙されなくなった日本人の成熟もあろうし、亀田ファミリーを客観的に見れるようになった日本人、TBSの商業主義を見抜く日本人というものの出現などもあろう。国粋主義の人々にとっては、扱いにくい時代になったであろう。ここに、50年前の日本人がいたら、きっとこのしらけた7人の客を罵る事であろう。
 ここまで読んでくれた人は、わたしがAnti-亀田で有ることは察しがつくとおもう。私が、ただ日本人と言うだけで、応援しなくなったのは実は訳が有る。以前大阪にいるとき、辰吉丈一郎の関係者に関する情報に接する機会があった。極めて横柄であるとのことであった。そして、辰吉自体も横柄で、恐らく朝青龍以上であったと思う。そんな経験が、私を単なる日本ファンでなくしている。それはどうでもいいことだが、ここまで多くの日本人を敵に回し、生きている亀田ファミリーの図太さには敬意を評さざるを得ない。いろいろストレスの有る時代、ここまでの図太さが無ければいけないのかもしれない。そういった意味では見習うべき家族だろう。
 私のブログには読者登録してくれている人はいない、コメントは下ネタを書き込む人間が多い、この記事に対してはきっと「お前は日本人の恥だ」などという書き込みも有るかもしれないが、かなりの日本人は私のようにしらけてこの試合を見たものと思う。


混乱のイラク、法は混乱を抑えるか助長するか? [テレビ評]

暫く記事をアップして無い。頭が回らないのか、もしかしてうつ?うつでは無いだろうが、世の中明るい話題に乏しい。 そんな中、先週テレビを見ながら思ったことがある。

 先週は、9.11から八年ということもあって、その関係者のその後といった内容のテレビ番組が多かったようだ。居酒屋にてそのうちの一つを見た。フセイン独裁政権が米軍の攻撃で倒れた後、多くの住民は民主的な生活を夢見たに違いない。しかし、軍隊の駐留にも拘らず続くテロ事件、当初は何れ収束すると見られていたが一向に落ち着かない。米国の大統領もブッシュからオバマに変わり、何れ米国の撤退も予想されているのが現実だ。その状況にあって、イラク国民のイラク国民による自治はなかなか進んでないらしい。商業は闇商売が横行し、取り締まるべき役所の制度が追いついてないらしい。役所に勤める公務員そのものが薄給且つ不定期給のため殆ど賄賂に頼る生活をしているという。レポートは生活を切り詰めてせっかく大学を出たものも警察・教師などの公務員試験を受けようとするも賄賂無しには受験票そのものがもらえない現実に将来を憂う若者の話から始まった。勿論賄賂を要求するのは公務員そのものではないが、「中間」業者がテレビ撮影という公のメディアが入っているにも拘らず、値引き交渉をする大学生に「金が欲しいのは俺じゃなく、役人なので、俺に値引き交渉をしても全く意味が無い」と言い放つ。そういった社会状況の中では犯罪も多く、司法は大忙しで、流れ作業で裁判が行なわれている。フセイン元大統領の裁判が形式的であったと世界の批判を受けたが、現場の裁判官が今、国の建て直しは健全な司法からとの思いで取り組んでいる姿が映し出された。しかし彼らを取り巻く状況は厳しい。フセイン時代は政権からの介入があり、現在は司法に携わる者が殺人などの対象になっているという。こういう悲観的な社会にあって、ここで司法が後退すれば社会はますます混乱に陥ると思ってか、司法の世界に飛び込んでくる若者も映し出された。彼らはフセイン時代、イラク戦争の時代の不条理さにだけは戻りたくないとの思いでいる。レポートは彼らの心の中には彼らが、ムハラビ法典で乱れた世を安定化させた優秀な祖先を持つという誇りを紹介していた。

 話は変わるが9/16朝日・中日など各紙にインドネシアで所謂姦通罪に石打ち刑を導入する法案が通ったという話が載っていた。少し調べると「石打ち」というのはイスラムの世界では姦通のほかに同性愛などにも適用されることが多いようで、反道徳罪に対する処罰のようである。姦通罪の多くは女性が負うことが多いようだが、かの国の一夫多妻制度を支える法律ともとれる。この法律の成立は伝統的なイスラムの法を守るという考えもあるようだが、穏健派イスラム教徒や人権団体からは反対が上がっているようで、イスラムの世界も一言では語れない。ところでこの石打ち刑、どんなものだろう。受刑者は地面に掘った穴に半身を埋められる。顔に目隠し、或いは袋をかぶされた状態で四方八方から投石を行なうという死刑の方法らしい。イラン出身の女優の話として投石は延々1-2時間に及ぶという考えただけでおぞましい刑罰である。

 私たちは日本にいて自民党が大敗北をして民主党政権になるだけで大変だ、ていへんだどうなんねん、と喋る言葉も何弁かわからない怪しい状態になるが、イスラムに支配されるイランは大変だろう。勿論法による安定化は必要だろうが、かの国の法自体が宗教の大きな影響下にある。そしてその宗教そのものが穏健的というよりも過激な宗派が伸びてきている現状で果たして法が国をまともに出来るかどうか気の遠くなる話かもしれない。


某局24時間テレビについて [テレビ評]

某局24時間テレビについて
 もう忘れてしまった、24時間テレビと言う番組の放送が始まったのはかなり以前のことだった。その頃はコンビニなる店舗やそれに伴う深夜の生活様式というものも今ほど普通に見られることではなく、新鮮な響きを覚えたものである。それから十数年、いや二三十年この言葉を聴いても何も新鮮なものも覚える事もなく、相変わらず黄色い服をトレードマークに繰り広げられている。この黄色はいったいどこから来ているのだろう。高倉健・倍賞千恵子で人気を博した「幸せの黄色いハンカチ」あたりの出典と同じなのだろうか?黄色は幸せ以外に退廃といった意味も持つ。BeatlesのYellow submarineは影にBeatles自体の退廃と、間も無く来る解散を暗示しているのだといった話を聞いた事がある。以前どこかで中国では黄色は皇帝の色といったことを書いたが、実は黄色小説、黄色電影(映画)は日本語に直すとピンクに置き換えられる。
 話を元に戻すが、24時間テレビは当初何時間か見たような気がする。印象としては全国規模に広がったテレビ局のネットワークをつなぐひとつの番組作成の実験だなあと感じたような気がする。出演者は少しはしゃぎすぎかといった印象も持った。先日一時間くらいこの番組を見てはしゃぎすぎだとの印象はさらに強く感じた。ネットワークを利用して日本国中の「感動的」な話を掘り起こしそれを脚色してさらに「感動的」とする、理由もなく涙を流すことぐらい朝飯前の徳光アナを初めとする芸人の涙がさらに「感動的」なストーリーを作り出す。視聴者参加型の形式にして製作者・視聴者「一体感」を盛り上げる(この一体感は毎年放送する事により視聴率の維持に役立つだろう)。以下、とても引っかかりを感じる場面を列挙する。たった一時間の視聴での感想だが、24時間付き合った人の感想は如何なるものか、機会があればblogの検索でもしてみることにしよう。
 まず、募金活動を映像でながし、募金額をかつての歌謡ショウのように途中経過を流しているのは、何かと批判も多かった中国で繰り広げられた四川地震での募金をあおる運動にも似ている。
 もっと不愉快なのは一人の芸人を仕立てて一昼夜のマラソンを行い、それをしつこく実況中継する。今年は110kmあまりだったが、たやすい事ではない事は分かる。しかしその実況にあたるスタッフは機材を担いで同じことをしているし、水分補給やマッサージ等の御世話係も同行した大名行列である。オリンピックでは42.195kmを休むことなく走るマラソンをあれば50kmを四時間弱で歩いている。110km走を一日がかりで移動して、それを「公共」電波を用いたテレビ放送で、しかも「感動的」ドラマとして流す必要が何所にあるだろうか?初めて長時間マラソンなるものを見たのは間寛平のときだったが、今回の放送を見て「まだやっとんの?」というのが率直な感想。一人に焦点を当てるより、より多数の人の参加を得て十時間耐久レースにしたほうがよりスポーツとして成り立つと思うが、一人を走らせるというのは単なる作り物にしか見えない。さらに驚いたのは本放送翌日に当たる9/1夜「エドのマラソン舞台裏」とかいう題で一時間半の放送を流した事、勿論私は見てないが何を考えとんねんというのが感想。ドラマと同じ作り物そのものである。110km走をくさすわけではないが、世の中にはオリンピックのマラソンランナーを始め市民ランナーに至るまで感動的な走りをしている人があまたいるはずで、そのことを思うとくだらない放送である。しかし、私がもっと驚いたのはその最高視聴率が41%,平均でも32%で北京オリンピック女子マラソンの視聴率を上回ったという。比べる事自体おこがましいが、なんと日本人のひまな事!と思う。
 魚鱗癬という病気が難病指定されたというトピックも「感動的」であった。ネットで調べたが、俗に言う難病というのは特定疾患の一部で、魚鱗癬はそうでなく小児慢性特定疾患に認定されているので、報道機関としては誤った情報を流すべきではない。それなりに視聴率も高い番組である事を考えると、もう少し考証をしっかりとすべきである。それはともかく、???と感じたのはその病気の子どもの言として「やはり、テレビの力は偉大である。テレビのお陰で難病指定された。」云々のレポートをしていたこと。テレビ放送のインタビューを受けた人は御存知だろういろいろな話をしても「編集」の名の下思いもよらぬ発言が放送され、裁判になることもある。故吉田茂首相はマスコミ嫌いで有名だったが、現在の政治家もその切り抜き作業に時々とさかを立てているのも日常である。テレビの編集者は自分に都合のいいことを切り抜く、つまりこの少年の発言は放送編集者にとって非常に都合のいい部分だったわけである。つまり、「テレビは政策を作る」とでも言いたいのか?世の中にはいろいろな病気があり、その難治性などを厚生労働省の役人や、学識経験者が集まり、国の予算等もにらみながら決めている作業をテレビ放送という手段で一刀両断に決められるというのは非常に危ない。小泉内閣の頃劇場型政治という言葉が流行ったが、今度は劇場型政策かと思うと複雑な気持ちに駆られる。大杉君枝とかいうテレビ関係者の自殺で社会的注目の集まった繊維筋痛症もマスコミ誘導の色合いが強い。アッシャー症候群問題で活動している方も難病指定とテレビの影響力というコラム(handicap.fc2web.com/mag/backnumber/back38.html)の中で、今後の活動は以下にテレビ局に取り入るかが大切になりそうと述べている。地道な運動をするよりもテレビ放送のディレクターに取り入った方が良いとしたら、・・・・そんな力を選挙の洗礼さえ受けてない一人のテレビディレクターに与えて良いと思いますか?
 他の放送は見てないのでこれ以上の感想は無い。でもきっと似たり寄ったりの「感動的」内容なのだろうと思う。この運動に賛同して街のあちこちでボランティアとして活動している皆様は御苦労様だと思うが、実際に表舞台で感動を売っている徳光アナを初めとした芸人の皆さんはおそらくボランティアではなくギャラのあるれっきとした仕事なんだと思う。ギャラを原ってもテレビ局としては視聴率は良いし、結果協賛企業も集まるので広告収入には事欠かない割に合う番組なのだと思う。かつての花形番組だった歌謡曲のベステテン系の番組や、ロードショー番組、おそらく実力の低い役者の増えた事によるドラマ人気の低迷などにより、売り込める番組といえばアホの坂田的な人物を起用して視聴者に優越感を与えつつ雑学知識を得られるような番組しかない情況の中ではこの24時間番組は大切なのかもしれない。しかし、地球温暖化の話題の中で効果の大小はともかくとして、コンビニの深夜営業の自粛の叫ばれる中、コンビに以前からあったこの番組もあり方を考える時期に来ているのではないか。この番組が日本人のボランティア意識の向上に寄与したという事を否定するものではないが、もうそろそろ役割を終えたとして24時間型の放送を終了して、もっと地味で良心的な放送をしても良いのではないか。それともまだ視聴率を稼ぎたいだろうか?
 福祉ボランティアの仮面を被ったバラエティショーはもうほどほどにしておいて欲しい。

NHK special 13億人の医療をみて [テレビ評]

NHK special 13億人の医療
(中国語では病院のことを医院と表記します。ここでは固有名詞としての病院は医院とし、一般名詞としての病院は病院とあらわすことにします)13億人医療01.jpg

6/15,NHK special 13億人の医療を見た。内容は改革開放の波が医療にも影響が及び、医療サービスへの国家の補助が大幅削減され、病院経営が市場経済の波にさらされた結果、住民(老百姓)の受療が大きく変化してきていることを伝えるドキュメンタリーフィルムであった。
 レポートの舞台は北京の同仁医院という総合病院。北京で同仁といえば同仁薬局を思い出す方もいよう。中方(漢方)薬の老舗で、北京旅行の定番の店のひとつである。最初は同じグループかなとも思ったが、どうも違うようだ。中国語で同仁といえば日本語で言う同僚のこと。だから同仁医院という命名はおそらく、北京市民みんなの病院といった意味であったのだろう。改革開放政策後の中国の経済発展とそれを受けた人民の収入の増加、情報化社会の進展、医療水準の地域間格差の拡大などを受け北京市民以外にも多くの人民が首都北京の同仁医院での診療を望み、朝も明けてない時間から病院に殺到する人民の取材からレポートは始まった。医療システムが市場経済に組み込まれていて診察する医師によって診察料が異なり、人気のある医師は診察料も高いが、よりよい医療を信じて求める人々はその診察を受ける権利を求めて並ぶことになる。しかし診察する主体は機械ではない、人間であり当然のことながら一日に診ることの出来る人数には制限がある、ここに診察券を売るダフ屋を生むことになる。病院のシステムの表の部分においても裏の世界においてもどのような医療を受けるかは金次第ということである。市場経済主義の医療制度の下では勝ち組に属するといえよう、しかしここまで患者の数が増えるともはや北京市民みんなの病院ではなく中国人民みんなの病院と言った様相を示す。一つの病院が斯くも広大な地域からの患者の一次から三次までの医療をこなすのは私たちの周りの病院と比べると異様に感じるのは私だけだろうか?中国のような人口の多い国で、ひとつの病院がこれほどの広い医療圏を守るというのは危機的にさえ見える。
 ここでこのレポートの主人公が現れる。彼は張坤くん九歳、北京から700km離れた安徽省の農村に住む。ちょっと前から目の様子がおかしいと気付いた母親であったが、村の診療所では間に合わず、近在の病院でも診ることは出来ないといわれ、やむを得ず遠い北京まで父親とともにやってきた。やっと北京の近代的病院での診察を受けると彼の両眼は網膜剥離に侵されていて左目は手遅れ(失明)であるとの診断、右目を残すためにはレーザー照射が必要との説明を受ける。両親とともに泊まる一泊450円の安宿で家族は治療を受ける事を選択する。しかし、いくら金がかかるのか皆目見当がつかない。三人は北京にくるにあたり多くの借金をして出てきている、それでも心もとない情況に追い詰められていたのである。かろうじてレーザー照射をうけて三人は故郷に帰る。帰ってからは三ヵ月後の再検査に向けての資金、7000円の工面が大変になってくる。張君の家は元来裕福な農家に属していたが、数年前その祖母が脳卒中をわずらい治療を続けている事もあって、借金まみれになっている。そこにきて一家の年収の半分に当たる金が再検査のために必要となっているのである。一家は政府が鳴り物入りで準備した農村医療保険に加入していた。そこから還付金が得られないか相談に行くが、制度は外来治療に関しては還付制度は無いとの事で、何も得られない。最終的には母親の実家の祖母からしわくちゃになった金をもって北京に行くことになる。結果は良好であったが一家には重い借金が残った。
 一方の主役である北京同仁病院は、市場経済下での病院運営を迫られていて、政府要人、会社社長など金に糸目をつけない人を対象とした病院経営にシフトしていく様子を描く。一方で金の取りはぐれを生じさせないよう医療費の支払いは前払いを原則とする診療態勢が確立していく。救急車から降りて金を払い、診察依頼をして金を払い、診療を受けて金を払い、・・・・金、金、金である。日本でも病院の未集金は大きな問題であるが、中国は未集金を発生させないよう徹底した仕組みになっていて、両国の違いを大きく感じさせた次第である。

 所を変えて日本、後期高齢者医療制度をめぐり姥捨て山だとの非難も大きい昨今であるが、中国の医療制度を見ると大きな較差を感じる。かつての中国の医療を知っていて現在日本で生活する中国人にとっても時代の変化にショックを受ける番組であったのではなかろうか。私はこのドキュメンタリーを見つつアメリカ映画SICKOを思い出していた。いずれにしても現代の医学は進歩したばかりにきめ細かく、そして高価なものになっている。その高価になった医療を等しく享受しようとした時、負担は大きくなっていく。公的医療制度が整っている場合は公の支出は青天井に大きくなり、日本のように後期高齢者制度の創設といった事態を引き起こす。公的制度が無い情況では医療の質は所有する金次第といったアメリカや中国のような情況となる。おそらく大方の人が今の日本型医療制度の存続を願うであろうが、医療費を止めども無く高める受療行動や、保健医療の充実は自らの国の財布の中身を見ながら行うべきことなのだとおもう。写真は張君をどうしようと相談する両親とそれを見守る張君。13億人の医療2.jpg


タグ:医療 中国
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