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公の空間でのプライバシー???? [随想]

以下はJ CAST ニュースというホームページの記事を拝借、まずは一読

http://www.j-cast.com/kaisha/2009/05/15041150.html
満員電車で「メール打つ人」 他人の目を気にしすぎ?
2009/5/15              
   昼下がりの某私鉄車内。ぎゅうぎゅうの混雑というほどではありませんが、つり革は全部埋まってる感じです。
「ちょっと、やめてください!」
   大声ではないですが、ハッキリとした女性の声が響き渡りました。車両の中程、立ってケータイを操作していた若い女性です。

車内に一瞬、緊張が走ったが……
「どうしたの?」
   痴漢かと思ったのでしょう、近くにいた主婦が女性に声をかけました。
「いえ、この人がメールを覗いてるんです…」
   一瞬、緊張が走った車内も、これにはガックリでした。

   実は、筆者もメールを打っている女性から睨まれたことがあります。別にメールを覗き見していたわけではなく、ホームで電車を待つ列に並んでいたときのこと。
   ボーッとして向かいのホームを所在なく見ていたのですが、前にいた女性は視線が気に障ったのでしょう。
   座っているとき、立っているとき、どちらにせよ、ケータイを操作していると、隣の人の視線が過剰に気になるのは、筆者も体験から知っています。
   なかには、実際にメールを覗き見している人もいるかもしれません。しかし、大半は特に覗き見をしようとしているわけではないような気もします。

プライバシーへの過剰反応はトラブルにつながる
   たしかに、ケータイの画面内はプライベート空間でしょう。でも、電車内などは「公」の空間です。
   公空間のただなかでプライベート空間を開くということは、ある程度は他人の目に晒されることを想定するべきなのではないでしょうか。

   とはいえ、どこででもケータイのメールを打つ自由が、誰にでもあります。プライバシーを守る権利も、誰にでもあります。
   そもそも混雑している場所でメールなんか打つ方が悪い、というのも正論でしょうが、どこでメールを打とうが勝手じゃないか、というのも間違っていない。

   さて、みなさんはどのように考えていらっしゃいますか?

   そうそう、最近のことです。近くの無人ATMに大行列が出来ていました。何事かと思って近くに行ってみると、実は5人しか並んでいません。
   床には次を待つ人用の場所が矢印で書かれているにもかかわらず、次を待つ人がATMを操作している人と2メートル以上も間を取っているために、大行列に見えてしまっていたのです。

   スキミング被害、あるいはその誤解を恐れてのことでしょうが、過剰すぎると思いました。50センチも離れれば、暗証番号を操作する手元なんて、まったく見えません。
   犯罪を抑止しよう、プライバシーを守ろうとする気持ちが多くの人にあるということは大変良いことではありますが、過剰すぎると別の不便やトラブルにつながる気がするのです。
   さて、どうでしょう?

井上トシユキ
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 どう思うでしょうか。最近はやたらとプライバシーの侵害という言葉がもてはやされて、どちらかというとプライベートでない空間にまでプライバシーが設定されていて、かえって不自由を感じる事が多くない(ここでいうプライベートとは本来の意味で、以前批判した用い方ではない)。そもそも電車という公の空間にプライベートな空間を設定する事自体ばかげた事と思うのだがどうだろう。そんなところでメールをしていて他人の目が気になったとして被害者意識を持つこと自体被害妄想という性格異常なんじゃないかと思う。たいていの人間はそんなもの見てないし、携帯電話の向こう側の景色や、携帯しているこの口紅が唇を超えてはみ出ている事を発見したり、口元にご飯粒がついていたりしてみているのかもしれないし、その向こうにいるきれいな娘を見ているのかもしれない。大体この記事にも書かれているようにたとえ見ていたとしても、他人は何を考えているのかと想像するのは人の好奇心のひとつで公の空間でそれをさらけ出している以上見られて文句を言うほうがおかしいと思う。作者も「もしかしたら、痴漢?」と思ったと書いているが、この女も場合によっては狂言痴漢と騒ぎ立てるかもしれないと思うと怖い話。それだけ今の社会はどこか病的なプライバシー尊重の時代にあると思うがどうだろう。そのうち顔を見ただけで(ガンをつけただけで)プライバシー侵害だといいかねない、それなら中東の国のように布で顔を隠せといいたくなるだろう。電車内で打つメールがプライバシーというなら何かで囲ってメールでもしやがれというのが本筋だろう。
 公の空間にプライバシーを設定する必要があるとすれば檜町公園で全裸になっても「ここは私のプライベート空間だ、何が公然わいせつだ」という理屈が立つというのは言い過ぎとして上の記事にあるようなプライバシー感覚は辟易する。こういった公の空間でプライバシーが存在すると言った誤解で生じている社会的現象は電車内の化粧、大音量のヘッドフォン、大声の談笑などがあろう。電車内の携帯電話の使用がエチケット違反とされて久しいが、問題なのは電車内で電話をすることではなく大声で話す事である。電車内で携帯電話で話す事より、周囲を気にせず大声で話す事のほうがずっと罪深いと思うがいかがだろう。
 上海-蘇州間の電車で他人の見る新聞にぐっと顔を近づけ読んでいる人を嫌がる事もせず、堂々と読ませている様子は懐かしいような、笑えるような光景であったのを思い出した。勿論この場合、盗み見をしている人が記事の途中まで読んだところで持ち主がページを変えても文句は言えない。   昔の列車内では新聞をばらばらにして他の人にも読ませている光景があったように思うが、そんな人々の余裕を中国に感じるのである。


自己都合による子供の学校欠席の是非について [随想]

 小学校に在籍する子供が怪我をした云々で受診する事が時々ある。創の処置を終え次回受診の指示をうける。これがweekdayの通常診療時間だと、「学校を休まんとあかん、五時ではあかんのか」などと文句というか、要求をしてくる親がいた。この怪我が学校内で受傷したものだったりすると、医療費負担そのものも公的機関から出される事もあって、受傷したこと自体に被害者意識を持つのか、さらに要求が強くなる。熱があるとかいった自覚症状のある病気だと問題はないのかもしれないが、外傷はややこしい。特に前述の公的負担制度などがあると、気持ちの上で「顧客」意識が出てサービスの提供を求めて当然という意識になり、双方の信頼に基づく契約の上でのサービスを提供する診療の場での意識にずれが生じる。傷を治してもらっているといった意識は何所にあるのかと疑いたくなるものである。こういった利益を受けているのだという意識の欠如が現在の医療不信のベースのひとつを形成していると思う。
 このまま文章を続けると現在の医療を取り巻く問題という深みに入っていくので話は止めるが、ここで提示したいのは親は子供が学校を休む或いは休まざるを得ない情況に置かれるという事は不利益と考えるという事である。(医療者は不利益には違いないが、医療を受けられない不利益と比較すると学校を休む不利益のほうが小さいと考えるが、そうでない親がいるから関係がギクシャクする)

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そこでつぎの投書を見てもらいたい。出典は読売新聞Web版の発言小町三月三日の投稿文です。URLはhttp://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0303/228095.htm?g=01

  一地方都市で英語教室をやっているえいこです。
 教室にやってくる小学生が、「東京ディズニーランド(または沖縄旅行、など)に行くの」と言い、レッスン休むことがこの地方都市でもしばしばあります。それもたいてい2泊3日くらいのスケジュールで、飛行機利用のツアーらしいのですが、それが土日をはさんでの金曜日または月曜日を休む、というのではなく、火、水、木といった週の真ん中、またはあと少しで夏休みなどというときなのです。つまり、夏休みや週末はツアーが高いため、平日の安い時に学校はまるまる休んで旅行するのです。
 「学校にはなんていうの」と聞くと、「旅行に行くって言ったよ、先生はそう、と言ったよ」というので、時代は変わったなあと思いながら、こういうのは最近は普通のことなのだろうか、と思うのです。
 わたしが子どものころは、学校を休むとそこの勉強がわからなくなるから夏休みなどに旅行はしていたのですが、学校を休んで家族旅行をする、というのがいまひとつわかりません。こどもの話にどうリアクションしたらいいかいつもちょっと困るのです。
 お子様に学校を休ませて旅行をさせますか、させませんか?お子様をお持ちのおかあさんたちに、その気持ちをおたずねしたいです。学校の先生の対応はどうなんでしょうか?

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 要は自己都合が子供を義務教育に通わせる事より優先するのは普通かどうか?といった疑問の投書かと思います。しつこく言い換えるなら義務教育でなかったら、国費のお世話になってないという意味では自由性もあるが、義務教育という他所様(国)の出しているサービスをどぶに捨てる事は自己都合の前には仕方が無い考えが普通か?という疑問です。最初に書いた医療を受ける為に学校を休まなければいけないのは不利益だという考えの親の存在とあわせると、果たして親の教育にかける思いの基本はどこにあるのだろうかと分からなくなるのです。この発言小町の記事に対する書き込みは概ね肯定的な意見が多かったのにも驚きました。皆さんはどう思うでしょう。これも国家による教育の保証が行われ続けた結果、義務の部分を忘れて権利だけを意識する住民の増加という意味で先の医療現場での???と根を同じくするものではないかと思うのであるが。

 最後に2000年11月のスキー場での記事を転記します。実はこの事件が起こったとき、マスコミが被害者となった中学生をかわいそうと思わせる為の情緒的報道で「かわいそう」といった感情を国民に植え付けようと煽る報道目立った。しかしわたしはその一方で「そんな事より、なんでこの時期中学生がスキーをするために外国におるんや」と思い変な世の中だと思っていたことを思い出した次第。自己都合で税金の大いなる恩恵により出席をさせてもらっている、学校を欠席するのが平気な時代、どう思うだろうか。これ等の親は「税金は俺らがだしているのだ、どこがわるいねん」と考えているのに違いないのだが、どこか権利と義務を履き違えているに違いない。

毎日11/13 22:40 <余録>ケーブルカー火災
 オーストリア・アルプスのキッツシュタインホルン山(3202メートル)。キッツは子ヤギ、シュタインは石、ホルンは峰の意味だから直訳すれば石の子ヤギ山というところか▲キッツは英語でキッド。複数形キッズは子どもや若者を指す。その子ヤギ山のトンネル内で起きたケーブルカーの火災事故。乗客の大半は若者という。事故車両に福島県猪苗代中学スキー部の生徒5人、慶応大学スキー部員2人を含む日本人10人が乗り合わせたようだ▲ケーブルカーはキッツシュタインホルン山のふもとの駅(標高911メートル)と終点(同2452メートル)を結んでいる。山の斜面をくりぬいたトンネルを走るから「山の地下鉄」の異名がある。ふもとの駅からトンネル入り口を見るとさながらジェットコースター▲スイスのユングフラウ鉄道のクライネ・シャイデック駅(2061メートル)からユングフラウ駅(3454メートル)間もアイガーをくりぬいた全長7122メートルのトンネルの地下鉄仕立てだが、こちらはもっぱら観光用。子ヤギ山のほうは座席はなく、スキー客を立ったまま運ぶ運搬用だ。2両とも満員だった▲非常事態が発生し、ドアを開けようとしたが開かない。

屈強な若者がスキーのストックでガラスを破り、脱出口をつくった。「下のほうに行けばいい」と叫んでそれに従った人もいたが、逆に上のほうに行った人もいたと負傷した生存者が証言している(独仏のテレビニュースによる)。とっさの判断が生死を分けた。日本の子どもの場合、言葉がわからないからなおさらまごついたことだろう。かわいそうに▲いい記録を出すため、中学生などジュニア選手の間で海外合宿は当たり前になっているという。個人で出かける選手も珍しくないそうだ。国際化はここまで進行した。同時に事故の国際化もいや応なしに進んだ。[2000-11-13-22:40]


耳障り 「・・・はよかったでしょうか?」 [随想]

最近よく聞く言葉、「・・・はよろしいですか?」「・・・はよかったでしょうか?」これも御客様に失礼の無いように、いつでもどこでも同じ服務を提供しましょうという経営品質の考えに乗っ取って広げられたマニュアルが広げた言い回しであろう。

①商品を買って釣銭を受け取ると「レシートはよかったでしょうか?」
意味はレシートをお渡ししなくてもよいでしょうかの意味であろう。売買においては領収書、レシートを渡すのが普通だから何も言わずに渡そうとするのが売り手の取るべき態度で客が要らないといえば捨てればいいことだが、最近は渡さないのを前提にこのような質問を投げかけているように思う。「要ります」と答えて初めてレシートを渡すが、店員にとっては「渡さないのが常識」といった考えが広がっている事を示しているように思う。ここの「よいでしょうか」と「よかったでしょうか」の違いであるが、国語学的解釈がどうなのかしらないが、前者の時制は現在~未来を示しているだろうし後者は過去~完了の領域にいるように思う。だから後者はレシートをまだ渡してない段階で「あなたの売買行為は完了しました。早く帰ってください」といった響きを感じ取り、不愉快さが強いように思う。
②先日あるファミリーレストランに行った。料金は1025円。
Aさんは1100円を払い75円の釣りをもらった。Bさんはきっちり1025円を支払った。Cさんが2000円を差し出したところ、
店員がのたまう。「30円はよかったでしょうか?」
C 「????」
店員の意図は「2000ですと釣りが975円になりますから、1030円払って釣りを5円にしたほうがいいとは思いますが、釣りを975円渡してもよかったでしょうか?」という「よかったでしょうか?」なのでしょう。

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 おそらくどの言語でもそうであるが、慣用語というのはそのもともとの言い回しからある部分が脱落して完成する形式がある。日本語では「今日は良いお天気ですね」「今日はお元気そうで何よりです」・・・・・・・・・などの定型的言い回しから後者が抜け落ちて「今日は」「こんにちは」といった挨拶用語が出来上がった。近年では「こんにちわ」と表記する人間もいるが言葉の形成過程から言えば間違いという事になる。使われる頻度は少ないが前者が脱落して後者のみが挨拶に用いられる事もある。「ええ天気だんな」「よう降りまんな」「ええ顔色ですな」。「さようなら」も一時代前の言い方は「さようならば・左様ならば」であるという。そしてもっと前は「左様ならば私は帰ります」といった意味であった。
 このような省略形は狭い仲間内で使われ、それに触れた外部のものが新鮮さ・粋・かっこいいなどの共感を得れば徐々に人から人に伝わっていったのであり、「標準語」の前の言語を使っていた地域言語に取り込まれて「標準語」になったのであろう。標準語とは違う意味から転じた挨拶用語は日本国中に残っているであろう。「こんにちは」は関西では「いてまっか?」でも通じるでしょうし、さようならも所変われば「おみょうにち」(宮城)、「おやすみなんしょ」(群馬)、「ごぶれいしました」(熊本)、「んだらまず」(新潟)などさようならとは違う言い回しを基にした挨拶がのこっている。
 こういった言い回しはある特定の地域で時間をかけ熟成され、人々に受け入れられてきた。しかし最初にあげた「・・・はよかったでしょうか?」は(経営品質に取り組む)企業・チェーン店の顧客接待だけを目的に作られたマニュアルを介して店員のみにより日本全国で用いられ客に違和感・反感を生じさせている。熟成の過程とは異なりやや乱暴な広がりである。現在たしなみとして求められる手紙の時候の挨拶や、風呂敷という用語、高島田の髪型などが吉原の遊女街から来たものらしいが、こういった用語・習慣も急速に世俗に入ろうとすれば忌み嫌われたかもしれないが、時間をかけ徐々に受け入れられていったのではないかと思うところである。視点を変えると昔の感染症が人から人へゆっくりと世界に広がっていったが今日的な感染症はひとたび発生すると飛行機に乗ってあっという間に地球の裏側まで広がってしまうのと同じようにおもう。広がり方が早ければ早いほど受け手の対応が間に合わず、言葉の領域では反感、感染症ではパニックを生じさせる。しかも現代の「・・・はよかったでしょうか?」は省略部分が非常に長い、それゆえに受け手から見れば極めて勝手気ままな省略形にうつってしまう。このような勝手な省略形は店員が自宅に帰って市民に戻ったときにも使う事によりウィルスのように市民生活に入ってくる。マニュアル作成に当たる人は「乱れた日本語」と指摘を受けないよう、自己満足的な経営品質改善に取り組まないよう気をつける必要があるように思う。

 先日コンビニの売り上げが初めて百貨店の売り上げを上回ったとのニュースが流れた。不況の中高額商品を扱う百貨店が避けられる一方でタスポ効果で売り上げの伸びたコンビニが好まれたというのが大きな要因のようだが第一生命の行ったアンケートでは接客に対して最も満足度の高いのは百貨店で低いのはコンビにであるとの調査もある。コンビニエンスストアの接客戦略はもっと自然体で行うよう考える時期にきている。


韓国にもMOTTAINAI [随想]

 今年も押し詰まってきた。今年の出来事で出皆それぞれに衝撃を受けた事件のひとつに五月の船場吉兆事件があろうかと思う。客に出した料理のあまりものを「MOTTAINAI」と判断、別の客に出していたというものである。使い回しをしても食品衛生上の問題がなければ法に触れるものではないが、現代の日本人の「衛生」意識からはとんでもない事との思いが強く、他の食品衛生法違反などもあって船場吉兆は廃業に追い込まれた。
 この事件吉兆たたきに終始したが、日本人の食生活はどうなの?といった議論は深まらなかった。金さえ出せば残すのは自由だとばかりに食材は残し放題、それでいて食料自給率は40%、もっと消費者たたきもあってしかるべき問題でもあった。しかし、消費者たる多くの国民は自らをたたく事はしなかった。また、職人(板前さん)が精魂かけて作った食材を残すというのも、職人に失礼だとも思う。よくテレビに出てくるバカな芸人の作る不味い料理でない以上は食べるべきだろう。バカな芸人の作る料理も食べないと「MOTTAINAI」ではないかという意見も出るかもしれないが、彼らはもっと料理を勉強すべきで、そうでないと食材に失礼というものである。不味くても自分で食べるぶんにはかまわないが、人に食べさせようと考える事は差し控えるべきであろう。

 食材の使いまわしの話題が、お隣韓国からも飛び込んできた。(
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081222-OYT1T00604.htm)なんでも韓国ではバンチャンと呼ばれる副菜が使い回しをされているらしい。その規模は有名なところも含めた飲食店の八割に及ぶ店がやっているとのことで、吉兆たたきのような事件にはなり得ない。最も近い外国であり、今度の金融危機で大きくウォン安になり韓国に行く人も増えたというから身に覚えのある方も多いのではないか。私は韓国には行った事はないが、バンチャンは副菜という事で日本で言えば、食事についてくる漬物や、カレー屋の福神漬け・ラッキョウ、ラーメン屋の韮・生姜、うどん屋の天かすの類の発展系のものなのだろう。サービス品(無料・ただ)という事も在り、残す人も多いらしい。そこで店としては「MOTTAINAI」精神が働く。日本ではしょうゆ、ソースなどと同様on demandの材料として「使いまわし」を行って処理しているが、韓国では個人の食として提供しているところが違うが、店にとっては日本のてんかすの類と同じなのだろう。高級店ではバンチャンを注文性にするところも出てきているというが一般庶民感覚ではただで当たり前という文化があって、再利用禁止を食品衛生法施行令で制限しようとする保健福祉家族省に対し、飲食店業界からの反発は強いという。ならばファミリーレストランで見られるサラダバーのように「バンチャンバー」を作ってはどうかと思ったりもするが、食文化の違う国の事、私の思いはピンボケなのかもしれない。
 しかし使い回しが判明して平謝りの吉兆と、当然のことと考える韓国飲食店業界、隣国ながら似て非なるものとの感いが強い。Korea吉兆があたるかもしれない。この事実に対して韓国の消費者の苦言も増えてきているというが、やはり食の文化の違いなのだろう。以前にも日中食文化考 食べつくす文化と食べ残す文化という記事を書いたが、日本人の場合自分の分は食べ尽くす文化(最近はたくさん残す人もいる事は問題ではある)であるが、韓国もどちらかというと中国のように集団で食べ、食べ残す文化なのかと思ったりする。

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記事
韓国公然の秘密「残飯使い回し」罰則適用へ、業界は反発も

 【ソウル=前田泰広】残飯を使い回して他の客に出すことが半ば「公然の秘密」となっている韓国の飲食店に対し、韓国政府は店舗閉鎖を含む厳しい措置を取る方針を決めた。
 2009年上半期までに食品衛生法施行令を改正する予定で、保健福祉家族省は「誤った食文化、悪習を改革する」と意気込んでいる。
 残飯使い回しの実態は韓国のテレビ各局で08年8~9月に相次いで放映された。公共放送KBSの独自調査では、80%の飲食店が使い回しをしていた。消費者の苦情が同省に寄せられるようになり、新措置導入の検討が始まったという。

 改正案では、初めて使い回しが発覚した店に営業停止1か月、2回目なら同3か月、3回目には店舗閉鎖と段階的に罰則を厳しくする。政府の動きに呼応して、ソウル市内の一部の飲食店では、食べ残しを客の前で専用容器に回収する取り組みも始まった。
 食べ残しが多い理由のひとつが、「パンチャン」と呼ばれるおかずが必要以上に食卓に並ぶことだ。パンチャンはキムチや魚の煮付けなど店によって違うが、客が食事を注文すると何種類かがサービスで提供される。同省によると、量が少ないと「ケチな店」と思われる風潮がある。このため、店がパンチャンを多めに出し、食べ残しを別の客にも使う悪循環が起きているという。
 ソウル市内でも高級飲食店などが集まる江南区は、パンチャンを注文制にして、客が食べたいものを必要な量だけ自分で選ぶ仕組みを導入するよう区内の店に呼びかけている。

 だが、呼びかけに応じたのは「区内5000店舗のうち約10店舗」(区担当者)。同省によると、今回の施行令改正に対しても飲食店の業界団体は、「客が減る」「処分が重すぎる」と反発しているという。
 同省は「残飯はゴミだと考え、残飯を減らす方法を考えてほしい」と、飲食業者に従来の発想を変えるよう要求。消費者に対しても「量が多ければ良いのではなく、きれいな食べ物が良いという認識を持ってほしい」と注文している。

 韓国ではソウル五輪開催決定後の1983年、「衛生的な食べ物」を実現しようとパンチャンを個別に注文する制度を導入した。しかし、パンチャンに料金を払うことに消費者が反発。罰則がなく、飲食店も制度を守らなかったため、制度が形骸化した経緯がある。今回も、飲食店の意識や消費者の関心を喚起できるかが、新措置の成否のカギを握りそうだ。

(2008年12月22日19時36分  読売新聞)


病院用語言い換え 序論 [随想]

 市内の食堂にて、テレビを見ていると円高で不況にも拘らず海外旅行が人気だという話をしていた。なんでもこの夏三割減となった旅行客が、円高、燃料安の影響で昨年比四割増の盛況だという。燃料サーチャージは例えば韓国では8000円が5000円にまで下がったと言っていた。隣で客の話し声がする。
「5000円で韓国行けるんやて、安いなあ」
「あんた、これは旅行代金と違うよ。何とかサージというやつや」
「えっ、あっまた別のもん?」
聞く人によってはまあ理解してると思う人もいるが、別の人が聴いたら言葉を正しく理解してないと受け取る人もいる。まあいずれにしても世の中にあふれる言葉の全てを理解している人はなく、それぞれ得意分野と不得意分野があるのは致し方ない。
 国語研究所が病院の言葉をわかりやすくする提案という事業を行っている。その意図は医療関係の言葉を正しく理解していない人が多く、患者側にとっては不満のもととなり、病院などにとっては説明しても理解してないことから時に訴訟にリスクにもつながるということで共通理解を促す必要があるとの事から検討を始めたとのことである。目的は崇高ですばらしい事だと思う。しかし、一般庶民を一把一絡げにして考える事が出来ないという先の例を考えると、各論的にはなかなか難しいわなというのが感想である。いずれにしても10/21中間報告が出された。わかりやすくするための食うとして、わからない原因を①患者がその言葉を知らない②理解が不確か③患者に心理的不安があると分類している。①②に関しては日常語で言い換えたり、明確な説明を加えたりしていく事が求められている。ただ、このことは改めて言われなくても医療者が常々感じている事であり、現場では患者の知的レベル等も考慮しながらそれぞれ工夫している事であり、いまさら言われなくてもという感が否めないのではないか。それともいまだに患者を無視して専門用語でしか説明しない医療者がいるのであろうか。ただ、いくら噛み砕いてもなかなか理解してないなという人がいることもまた事実である。先日ノーベル物理学賞を日本人が取りその業績を新聞などで噛み砕いて説明していたが人々の理解の差はおそらく極めて大であろう。ただ「病院の言葉」委員会の委員の先生も書いているように、これは決してマニュアルではないという事で、日々説明に苦労している医療者の患者との共通理解の一助とするためのものという理解でとらえたいと思う。
 現代は社会が細分化され、その領域の専門用語、術語というものが広範にある。それを全て理解するのは無理である。なぜならそのベースにある概念から理解する必要があるからである。私などは法律用語や、裁判用語など何故もっと日常的な言葉で言い換えないかと常々思っているのだが、どうも皆法曹界には意見しにくいようである。こんなところが新しい裁判員制度に庶民が二の足を踏む原因のひとつにもなっているように思うがどうであろう。
 物事を単純に、共通のフォーマットで説明する事は全体の理解のレベルを上げるには意味がある。そして世の中はマニュアル全盛である。しかし、マニュアル化することで却って、微妙な意味のコミュニケーションが阻害されるといった弊害も指摘されている。小泉政権はわかりやすく単純な言葉で政策を訴え、小泉劇場ともいわれ一見わかりやすく、世論の支持絶大であった。しかし、今その共通理解が砂上の楼閣であった事は皆思っていることであろう。わかりやすくすることも大切だが、多様な言葉の氾濫する現代に生きているという事からわたしたちは逃れられない。必要な言葉は進んで学ぶ姿勢も必要であろう(勿論巷にあふれるKYとか、いまうなどの不必要な言葉は切り捨てればいい)。
 どうも硬い内容になりそうだ。それに各論を書くと長くなる。今日は序論という事でまた日を改めて、頭をまとめ各論を考えてみる。

今日から冬 [随想]

 昨日11/7は立冬、ちょうど当時と秋分の中間点で暦の上からは冬になる。しかし昨日は全国的にやや暖かめであった。昨日通った低気圧の後ろに寒気が入り今日から冬らしくなるという。例年季節の変わり目には北と南の気候の違いに日本も広いといった内容のニュースが見られるが今年もそんなニュースにあふれた。

 北では大雪山系黒岳で積雪1mとなりゲレンデがオープンし、冬本番といったニュースがあった。スキーといえば六甲山系でも人工スキー場の準備が始まったとあった。しかし、北海道とはいえ各地はまだ氷点下に達しなかった。

東北地方は紅葉も落ち始めいよいよ秋が深まったといったニュースがあり、大根の寒干し、京都千枚漬漬け込み、彦根城松のこも巻き、米子のラッセル車試運転、北京の集中暖房施設試運転など冬本番を前にその準備作業が始まった事を報じるニュースが多い。

落葉とは言いながら、関西地方では今年は例年になく紅葉がおそいという。大体この50年の間で時期が2週間くらい遅くなったという事で、関西の今年の紅葉の見ごろは概ね今月中旬以降ということらしい。俳句の冬の季語「冬紅葉」はまだ青い木々を前に使うと風流が失われるといった影響も出ているそうな。

沖縄地方はまた特異な存在で張り出した太平洋高気圧の影響下にあって昨日も気温が30度を越え、「真夏日」を記録。なんでも21年振りとのことで、まだ浜辺で海水浴を楽しむ人々もいるとのことである。

概して言えば暦の上では冬といいながら、沖縄地方を除けば心も身体も生活も冬本番に備える頃という事か。この日日本の最高気温は那覇、南大東島などの30.8度、最低は旭川の3.5度であった。

081107各地の気温.jpg


タグ:立冬

Qちゃん、君の泪に乾杯 [随想]

 081028「完全燃焼し、さわやか」 Qちゃん、涙こらえきれず1.jpg

www.asahi.comより 

 08,10.28夜、さびしさを感じるがさわやかな衝撃が走った。マラソンランナー高橋尚子選手の引退表明である。2000年9月シドニーオリンピックを圧倒的な強さで優勝、2001年9月ベルリンマラソンで2時間19分46秒の世界新記録(当時)で優勝など向かうところ敵無しの状態が続いた。次のオリンピックでの連覇も期待されたが、肋骨骨折などもあり、なかなか代表の座を射止められない日が続いた。最後のチャンスの東京国際でも二位に終わり泪を呑む。ぱっとした成績が見られない日が続く中、2008年のオリンピックにも挑戦し20083月9日の名古屋国際マラソンにかけたが27位に終わった。彼女自身、自分の能力の低下は最もわかっていたのでせめて北京五輪を自分の最後のレースにしたいという気持ちもあって最後の代表選考会、しかもシドニー代表権をつかんだ思い出の名古屋国際マラソンにかけたが、夢と散ったのではなかろうか。ベルリンマラソン当時コーチの小出さんをして、この子は15分台も可能だと言わしめたが、結局ベルリンがピークだった。プロとしての自覚で、プロの走りが出来ないそれが彼女を引退の決意をさせるにいたった。プロとしてチーム高橋を率いて活動してきたが、プロとしての成績が残せない事でチームメンバーの士気や今後を考えての引退表明と思う。
  記者会見の様子は見なかったが、ネットのニュースを見る限り残念な気持ちを持ちつつも自分の全てをぶつけてマラソンに取り組んだ十数年におそらく悔いはないのだろうが、時とともに身体能力の落ちていく現実、これまで彼女を支援してきてくれた人々、うれしかった事、辛かった事などが一気に思い出されてきて自然と泪が落ちた事だろう。しかしその泪は周りのものにとってはとてもさわやかな印象を与えたに違いないと思う。
 シドニーに行くときも日本最強とみんな思っていたが、なかなか日本代表に選ばれず(代表選考会に参加せず)、地元開催となる最後の名古屋国際に出て代表の座を射止めた。周りをはらはらさせつつもきっちりと結果を出す、それがみんなの共感を得ていった。スパートしたときの強さも魅力だったし、シドニーではそのときのサングラスを投げ捨てる動作も話題になった。今年はノーベル賞の話題が世間を賑わしたが、あの当時も小柴昌俊教授がノーベル賞を取り、その親戚だという事も話題になった。何より印象に残ったのは優勝のゴールに入るや喜ぶまもなく小出コーチを探した様子と優勝後のインタビューでマラソンを走る事はわくわくどきどきするくらい楽しいと語ったコメントだったろう。

Qちゃんお疲れ様
君の瞳に乾杯
君の泪に乾杯

君は誰よりも速かった
それでいて走る事を楽しんでいた
みんなには知る喜びを伝えていた

でも明日から君のレースを見ることはない
でもみんなは知っている
君がずっと走り続ける事を

何故って?
それは簡単
走る事は楽しい事だから

みんな知っている
君が21世紀最初の最強ランナーだった事を
君が力の限り走り続けたことを

君の泪に乾杯


毎日闇鍋食べてます!! [随想]

 闇鍋と聞いてピンと来る人はどれくらいいるのであろうか。昔のあじのある言い方が廃れ、チョーとかKYとか品のないことばが隆盛する中、既に死語になっているのかもしれない。気の知れたもの同士が互いに何であるかは秘密にして食材を持ち寄り、それを鍋にぶち込んで鍋料理をして楽しむ事をさす。私も経験はないが、旧制高校の卒業生は寮生活の中での思い出のひとつになっているという話を先輩から聞いた事がある。中には手ぬぐいや、長靴といった到底食べられないものを入れる不届き者もいたというが、通常は不文律の常識下に行われていたと聞く。
 今日的に私が毎日食べているのはそういったものではなく、別のことばで言うと、偽装食品である。「偽」は昨年のKanji of the yearであったが、今年も偽は続いており、今年のKanji of the yearが果たして何になるのか想像もつかない。高濃度農薬あるいはカビ汚染により食用とならなかった事故米と呼ばれる工業用米が食用とされて、何が入っているのか消費者は勿論、おそらく末端の業者も知らないまま食用米として流通する。中国のメラミン混入粉ミルクに至っては当初何のことかよくわからなかった。何でも最近腎結石になる子どもが多いとの事から死亡事故が生じ、原因を探ったら粉ミルクにメラミンが入っていたという事である。でもメラミンってたしか、樹脂にして家具に使うあれが、なんでミルクに・・・・?というのが初めて報に接していたときの感想である。続報を聞くうち、何でもその物質に窒素分量が多い事から窒素を頼りに蛋白量を測定する装置をごまかす事が出来るものであるらしい。だからやはりメラミンも不良食品というよりは非食品である。この辺が昨年までの不良食品事件からみると新たな展開といえる。終に私たちの食べる闇鍋には手ぬぐいやら、長靴が投げ込まれ始めたと言っていいのではないだろうか。昔の闇鍋は明かりさえつければ「なんじゃ、この長靴を入れたのは誰や!」とすぐわかったが、現代の闇鍋は何が入っているのか、なかなか分からない。健康被害が出るのを待って初めて世の中に知られる事になるものもあろう。
 ところで「偽」の字を分解して「人の為がなぜいつわり?」と字源を考えると訳が分からないといった思いをしたことのある人もいるかもしれない。しかしこの字を分解して解釈するときは「人の為すこと」と分解すべきで、その反対語は「天然」にあたる。私たちが現代よく健康食品のキャッチフレーズの代名詞のように言われる「自然食品」もまたその目的で人が栽培あるいは成長を管理すれば「天然」というより「偽」の産物といっていいであろう。人はその誕生から今日の繁栄まで自らを生かす為にいろいろ手を加えてきた。常に「偽」が必要であったといって言い。ただ、今日の社会が悲しいのは気の知れた者同士の闇鍋でなく、どこの誰が作ったものか分からない闇鍋を毎日食べているという事である。監視制度、traceabilityなど新たな「偽」を用いて生産の「偽」の質を上げていかなければいけない。生産者が外国であれば外交ルートを用いて食材生産のknow-howを教えてでもかの国の生産能力を改善して行かなければいけない。いずれにしても人が生きていくかぎり、「偽」は必要であり、私たちの将来的な役割は「偽」の質を上げ、出来れば「偽」がfalseといういみでなく、human madeという意味に変わることなんだろう。外国の為にそこまでするか?確かにそうは思うが食の自給率40%の我が国の食の安全保障を考えると外国の食品管理体制を我が国のそれと同様にしていくことはある種「同化政策」であり、長い目で見ると国益にもなると思うのだがどうだろう。

日中食文化考 食べつくす文化と食べ残す文化 [随想]

 大きな題となってしまったが、文化といったテーマはいろいろな切り口があり、その一部と解釈したい。そもそも私自身はそのような研究をしている身分ではない。自分なりに感じる事を書き留める。
 ラーメン=中華料理といった田舎の中華料理ではなく横浜や神戸の中華街にあるような中華料理の店に行き食事をするとする。たいていは何人かのグループで行きいろいろな品を注文しターンテーブルに乗った料理を思い思いに取り食べていく。当然のことながら人気の食材はなくなるが、残してしまう料理もある。ただ中華においてはこのことは失礼にはあたらない。上海に行ったとき現地調達の蘇州旅行に参加した。参加者は殆ど中国人でガイドも中国語の旅行である。日本人向けの旅行に比べ格安である事がその理由。その旅行で知り合った一人の日本人とその連れの中国人の四人で昼食を食べた。日本なら何々定食を個々に注文するところであるが、中国人の習慣に任せたら数皿のおかずを注文し、ご飯を四つ注文しそれらをテーブルに並べると個々に好きなものを食べる事になった。やはり好きなものを個々が食べ、残ったものはしょうがないといった食事風景である。映画で見る家庭料理も同様誰のものとは決まってないものをみんなで突っつくのが基本であるようだ。中国で家庭に招かれもてなしを受けたが、食べきると次々料理が運ばれてくる。残すと悪いと思った日本人は一生懸命に食べ度を越してしまうといった笑い話をよく聞く。中国人の習慣としては客人が残すほどもてなす事を礼儀とする考えがあるというわけで、それを知らないと笑い話のような事が生じる。いわば食べ残す文化であろう。
 一方で日本人は家庭においても食堂においても個々が個人の食べる食事、言い換えると定食を食べる文化である。高級な日本料理店といえば懐石料理であるがこれも個人の食べるものが次々運ばれてくるのが基本である。古くは「御膳」で食べていた頃も「御膳」の上のものが個人の食べるものといった文化がある。そのものは個人が食べる事を約束された権利であり、義務である。よく米粒など残しているときまって「お百姓さんが苦労して造ったものを残すとは失礼だ。」とたしなめられたもので私など食べ終えた茶碗に茶を注ぎ食べつくす事を礼儀と考えるようになったものである。食べ終えた魚の煮付けなどもお茶をかけてスープを飲み干すとまた格別である。また残った煮つけを冷蔵庫などにおいておくとスープの部分が固まる、これをおこごりと読んで好んで食べたものである。栄養学者からは塩分摂取が増えるとお咎めを受けそうだが、食べつくす文化の表れと考える。ようは日本の食文化は個人の食べる分が規定されていてそれを残す偏食を指摘しやすい文化といえる。先に書いた中華街の料理でもよく見るとエビフライや、春巻きなどその数が客の人数分であり、日本で食べる限りどこかで誰の分といった境界がされているのが現実である。
 勿論これは一側面からの見方であるし例外は常に存在する。中国でも餃子などを頼むと一套二套とセットでやってくるし、さそりや犬など日本人の食べないものまで食べつくすのが中国人である。先日九州で糸瓜を漬物にして食べる習慣があることがテレビニュースで流れたが、糸瓜などは中国人にとっては普通の食べ物という事である。食材に対する思いは日本人より中国人のほうが強いのは紛れもないことかもしれない。また日本人でも鍋料理、すき焼き、皿鉢料理などの刺身類などみんなで突っつくのを基本とする料理もある。
 ただ一般的に言って日本の食事は個人の食べる分を規定して、それを食べつくす事を義務とし食材となった動植物への感謝を忘れないよう教育する事においては合理的であろうと思う。そして偏食を防ぐ事にも役立つ。しかしながら、個食・孤食などという言葉が生まれ各自が勝手に食べるようになったとき、この日本式食事の効用は失われていく。伝統的食材を残そうという動きもあるが、「御膳」に代表される伝統的な食文化にも光を当てておくべき時期と思うが如何。

 日中食文化考と題したからにはこの違いから日中の違いに考察を加える必要があるでしょう。日本の食文化に関してはここから食にも何か儀式を求める性格が反映されているのではないかと思われます。そして個人の取り分を最初に規定するというのは狭い日本で争いを避ける方法のひとつではないかと思ったりもする。対する中国はとても広い国です。とても個人の取り分がどうのこうのといってられない。俺のものは貴様のものといったshareの精神が日本人などより強いのではないかと思います。何かが残ればそれを利用して誰が何をやってもかまわないといったおおらかさがあるように思う。名作大地の子で主人公陸一心が日本に帰るか、中国に残るか迷いつつ日本の父と長江を旅する中で私はこの大地の子なのだと悟った場面を想像してしまいますが、中国人の場合全てをあの広大な大陸から考える習慣があるのかと思うのだが考えすぎだろうか???


タグ:食文化 偏食

夏が来た [随想]

 今年の梅雨は最初は梅雨らしく長雨が続いたが、後は雨も少なく曇りの日が多かったように思う。天気図でも梅雨前線の上下動というより出ては消えるを繰り返していたのではないだろうか。時に晴れたりすると真夏日を各地で記録しいつ「夏が来た」といってもいい状態になっていた。これは気象庁も梅雨明け宣言を出すのが難しいなと思っていたところであるが、天候が少し良くなった19日を狙うように関東甲信、東海、北陸、東北南部、東北北部の梅雨明け宣言を出した。しかし典型的な梅雨明けと異なり、梅雨明け七日の好天は見られそうも無い。でも梅雨が開けた以上「夏が来た」である。そして今日二十二日は二十四節気の大暑、この二十四日は土用の丑で夏本番となる。クーラーのあたり過ぎ、ジュース・ビールなど冷たい飲み物の飲みすぎで体調を崩さないようしなければいけない。勿論私は痛風の事もあり、ビールは飲んでないけれど。

 梅雨明けを境に裏山の様子が変わってきた。それまでは毎朝六時前くらいになると鶯があちこちで合唱して実にさわやかだったが、ちょうど十九日くらいから蝉の合唱が始まった。蝉が鳴き始めると鶯の声はなりを潜める。そして疲れたのか蝉が泣き止んだのを見計らうように鶯の鳴き声が聞こえてくる。鶯にとっても蝉にとっても鳴く(蝉の場合は性格には鳴くではないけれど)ということは他の個体とのコミュニケーションであろうが、蝉が鳴き始めると、鶯は「あっ、またうるさい奴が来た」とばかりに沈黙し、合間を見て「あいつらうるそうてかなんな」といっているように思う。ほんとうに時の移ろいはゆっくりとしているようで、劇的に変化する。しかし、俗事に埋没して生活しているとこの変化に気づかない。体力の許す限り、室内空間(建物、自動車、電車、地下空間)をでて戸外で季節を体験するのが動物としての人の生業なのでしょう。クーラーばかりあたっていると、この感覚がぼけてくる。近頃の子供は夏も自室にクーラーをがんがんにかけて過す子が多いと聞く、少し動物である事を忘れているように思う。


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