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野外活動における危機認識意識について [雑感・話題]

 子どもの頃、日本経済は右肩上がりの成長を続け、米余りのため休耕田が奨励されていた頃の事、宅地造成が田畑に広がっていった。ため池や用水路に子どもが落ち死亡したが、そこには立ち入り禁止の立て札が無かったとか柵がなかった云々のニュースをよく耳にした。論調は管理責任を問うものが多かった。それまでならそこは危ないと地元の者なら知っていたがよそ者が入ってきて危険を知らないことに原因があると子供心には思ったが、とにかく柵がなかったと強調されていた。それなら日本の海岸線がびっしり柵で覆われる事になるのだろうかなどとも思ったものである。
 時は移りて沿岸漁業は低調となり、漁村といわれるところでも一次産業従事者よりも三次産業従事者のほうが多くなった現在である。民宿や釣り客相手の産業が漁村に増えて久しい。それとともに岩場からの転落、波にさらわれたといったニュースが増えてきたように思う。この場合、柵がなかったことを報道するニュースはさすがに無いようだ。波浪注意報・警報が出ている事も多い。地元の漁師や海上保安庁の人がでて救助に当たり、事無く救命できる事もある。そういった海上で救助に当たる人々にとっても危険な作業となるが、事故は後を絶たない。山の事故などで救助された人が、自らの判断ミスを反省する記者会見を見たことはあるが、釣り客の反省会見はあまり見た事がない。
 今日新潟県柏崎市で16人が堤防で釣りをしていたところ波にさらわれるという事故がおきた。山形県でも10人が転落、ヘリで救助されたという。柏崎付近の波の高さは2mで一応波浪注意報基準を下回っており注意報は出てなかったという。しかし、その堤防は普段から釣り客の立ち入りを禁止しており柵が張り巡らされていたが、おそらくそこに侵入したい人々により破壊され進入できる状態にあったという。そして柵のみでは不十分とみた地元の人が折を見て危ないから帰るようにわざわざ注意まで与えていたという。それでも波にさらわれてしまった。
 こういったニュースを聞くときかつてのため池転落のニュースを思い出す。もし、柵がなかったら地元の港湾関係者が責任を問われるのであろうか?危ないところで、波が出てきたといって注意を与えなかったら、地元の保安関係者が見て見ぬふりをしたと言って責任を問われるのであろうか?波浪注意報が出てなかったといって気象当局が責められることであろうか?救助隊の出動が少し遅かったら、遭難救助体制がなってないと非難されるのであろうか?行政責任を果たそうと地元では頭を痛めているという(sankei.jp.msn.com/affairs/crime/081025/crm0810251926022-n1.htm)。一歩先は海というところまで行って、波・うねりが高まってきている事は人に教えられなくても、注意報が出ているかどうか確認しなくても、見ればわかることである。もう少し自然活動の中での危機認識力を持つ必要があるのではないだろうか。前に日本の河川では「遊泳禁止」の立て札があるが、アメリカではそれは無いとのことを聞いた事がある。ただ「危険」とあるのみだというのである。危険なところで泳ぐかどうかは自己責任との意識がかの国にはあるというのである。
 今回は消防や保安庁の出動であり、費用は税金持ちとのことだが、山の遭難で民間ヘリが出た場合の一般の相場は一時間当たり50-100万円とのことである(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1324843.html)。遭難救助にあたる人々を危険にさらす事も考えといて欲しいものだと思うこのごろ。


秋を告げる金木犀雑感 [雑感・話題]

金木犀08s.jpg

 先日(10/8)出勤してバイクを駐輪場に置くと、そこはかとなく漂ういい香に気づいた。周りを見ると橙色の花が見えた。そう、金木犀である。その色は鮮やかだが花弁は小さく目立たない。毎年の事だがこの花の開花はいつも香で気づき季節の歩みを知らせてくれる。今か今かと待ちわびて開花を知る桜とは対照的な控えめな花である。香はややきついが甘い香がして、とても好きな香である。かつてトイレの芳香剤はこの香が全国を凌駕していた。また花も小さい十字架をしていてとてもかわいい。花が落下して一面にじゅうたんを引いたようになった情景も風情を感じる。日本人もこの木を気に入っていて、近辺では豊中、明石、草津などが市の木に指定しているらしい。私は橙色の話しか見た事は無いのですが、調べてみると銀木犀といって白い花を咲かせるものもあり、クリーム色の花を咲かせるものもあるらしい。日本名は銀木犀のほかに柊木犀とか薄黄木犀とかいろいろあるらしい。
 ところで、この木(花)原産は中国の南方のほうで、木犀の名はその木の肌がサイ(犀)の皮膚に似ていることから木のサイという意味でついたそうな。日本への渡来は十七世紀の頃といわれる。花には雄花と雌花があるが、日本には雄花しかないので、実はつかない。中国ではむしろ丹桂という表示のほうが一般的である。その花は桂花とかく。ここで桂花陳酒を思い出した人は相当の呑み助である。実は桂花陳酒は金木犀の花を白ワインにつけて作ったもの、一年中店にあるが、考えてみると今が旬のお酒といえる。昨今のメラミンミルクなどの事件で、「中国産はどうも・・・」という方もいるだろうが、なんと裕さんという人が自分のブログの中(masu901.hp.infoseek.co.jp/page2zx21.html)でキンモクセイ酒の造り方を解説しているので興味のある人は試してみるのも一案かも・・・
 中国でもとても親近感を持ってとらえられているらしく、たくさんの木がある杭州に満隴桂雨公園というところがある。古くは五代呉越国時代、満覚院という寺院が開山されここに木犀を植えたといわれる。1983年木犀の花は杭州市の花に決められた。1985年ここは西湖新十景の一つとなり公園建設となったとのことである。(www.allybook.com/Japan/jp002.htm)さらに中国観光を考えたことのある人なら桂林という地名を知らない人はいないはずだが、この地名もまさに金木犀の木がたくさんあるという地名である。桂林はとてもきれいな景勝地ですが、この季節に行くと甘い香に包まれた桂林を体験できるのでしょう。映画Gone with the windで酒の匂いを消すためにau de toiletを口に含む場面があったと思うが、その昔中国の女性はデートの前に木犀入りのお酒を口に含ませ吐く息を花の香りにしたそうです。(hanabatake.moo.jp/monogatari/aki/mokusei.htm)
 ところで、中国から日本に渡来したもので思い浮かぶのは御茶であろうが、中国茶はその醗酵の度合いにより、緑茶、白茶、黄茶、青茶、紅茶、黒茶の六種類に分けられます。龍井茶・碧螺春は緑茶の代表で、日本人の大好きな烏龍茶は青茶のひとつです。更に胃壁を削ぐとまで言われてダイエット効果で有名なプーアール茶(普洱茶)は黒茶に属します。こういった分類とは別に花の香、あるいは花そのものを茶葉とブレンドしたという意味で花茶というものも存在します。有名なのはジャスミン茶(茉莉花茶)ですが、そのほかに菊花茶、バラ茶(玫瑰花茶)などがあります。更に桂花茶もあります。神戸や横浜の中華街でこれらの花茶を探すのも楽しいものです。
 以上金木犀の花から思いつくままに書いてみました。


毎日闇鍋食べてます!! [随想]

 闇鍋と聞いてピンと来る人はどれくらいいるのであろうか。昔のあじのある言い方が廃れ、チョーとかKYとか品のないことばが隆盛する中、既に死語になっているのかもしれない。気の知れたもの同士が互いに何であるかは秘密にして食材を持ち寄り、それを鍋にぶち込んで鍋料理をして楽しむ事をさす。私も経験はないが、旧制高校の卒業生は寮生活の中での思い出のひとつになっているという話を先輩から聞いた事がある。中には手ぬぐいや、長靴といった到底食べられないものを入れる不届き者もいたというが、通常は不文律の常識下に行われていたと聞く。
 今日的に私が毎日食べているのはそういったものではなく、別のことばで言うと、偽装食品である。「偽」は昨年のKanji of the yearであったが、今年も偽は続いており、今年のKanji of the yearが果たして何になるのか想像もつかない。高濃度農薬あるいはカビ汚染により食用とならなかった事故米と呼ばれる工業用米が食用とされて、何が入っているのか消費者は勿論、おそらく末端の業者も知らないまま食用米として流通する。中国のメラミン混入粉ミルクに至っては当初何のことかよくわからなかった。何でも最近腎結石になる子どもが多いとの事から死亡事故が生じ、原因を探ったら粉ミルクにメラミンが入っていたという事である。でもメラミンってたしか、樹脂にして家具に使うあれが、なんでミルクに・・・・?というのが初めて報に接していたときの感想である。続報を聞くうち、何でもその物質に窒素分量が多い事から窒素を頼りに蛋白量を測定する装置をごまかす事が出来るものであるらしい。だからやはりメラミンも不良食品というよりは非食品である。この辺が昨年までの不良食品事件からみると新たな展開といえる。終に私たちの食べる闇鍋には手ぬぐいやら、長靴が投げ込まれ始めたと言っていいのではないだろうか。昔の闇鍋は明かりさえつければ「なんじゃ、この長靴を入れたのは誰や!」とすぐわかったが、現代の闇鍋は何が入っているのか、なかなか分からない。健康被害が出るのを待って初めて世の中に知られる事になるものもあろう。
 ところで「偽」の字を分解して「人の為がなぜいつわり?」と字源を考えると訳が分からないといった思いをしたことのある人もいるかもしれない。しかしこの字を分解して解釈するときは「人の為すこと」と分解すべきで、その反対語は「天然」にあたる。私たちが現代よく健康食品のキャッチフレーズの代名詞のように言われる「自然食品」もまたその目的で人が栽培あるいは成長を管理すれば「天然」というより「偽」の産物といっていいであろう。人はその誕生から今日の繁栄まで自らを生かす為にいろいろ手を加えてきた。常に「偽」が必要であったといって言い。ただ、今日の社会が悲しいのは気の知れた者同士の闇鍋でなく、どこの誰が作ったものか分からない闇鍋を毎日食べているという事である。監視制度、traceabilityなど新たな「偽」を用いて生産の「偽」の質を上げていかなければいけない。生産者が外国であれば外交ルートを用いて食材生産のknow-howを教えてでもかの国の生産能力を改善して行かなければいけない。いずれにしても人が生きていくかぎり、「偽」は必要であり、私たちの将来的な役割は「偽」の質を上げ、出来れば「偽」がfalseといういみでなく、human madeという意味に変わることなんだろう。外国の為にそこまでするか?確かにそうは思うが食の自給率40%の我が国の食の安全保障を考えると外国の食品管理体制を我が国のそれと同様にしていくことはある種「同化政策」であり、長い目で見ると国益にもなると思うのだがどうだろう。

高速道路のドッグラン [雑感・話題]

 先日、中国自動車道上り線を利用したときのこと、夜間加西SAに立ち寄った。既にSAのレストランなどは営業を既に終えており、施設の看板の明かりのみがあかあかとついていた。施設を歩いていてDog Runと書いた看板に気付いた。そうか時代は高速道路にもDog Runを求める時代に変わってきたのかといささか驚いた。

DogRun加西2a.jpgDogRun加西1a.jpg 日頃から、自動車に犬・猫などを乗せている風景に時々出くわす様になって来た。時にはハンドルを握った両手の間に動物を乗せている輩もいる。携帯電話までは禁止する法律が出来たが、いくら飼い犬といっても何らかの刺激をきっかけに何をするか分からない動物を膝の上に乗せて走るのは安全運転意識が低いというか野不動者というものだ。携帯電話などのように法律で禁止される前に動物愛好家としての意識でこのような行為はエチケット違反という意識が高まってもらいたいものである。 愛護用獣畜を飼っていて一番不便だろうと考えるのはやはり外出時の対応であろう。短時間なら家に残せばいいが、長くなると一緒に連れて行かざるを得ない事もあろう。ホテルの約款などでも獣畜対応のところと対応できない旨の説明を明記するようになった。帯同する運転者はきっとホテル情報を下調べしていくか、大型車で車内泊などを利用して旅行する事になるのであろう。長距離運転は人間同様獣畜類にもストレスをあたえる。時々リフレッシュする必要があるのは彼らにも相当するのであろう。そういった背景で終にSAにDog Runが誕生したものと思われる。背景が運転する者の要望であったのか、動物を愛護しましょうという行政等の働きの結果なのか、何とか客を獲得しようという単なる市場原理が走させたのか私には分からない。しかし調べてみると図のごとく案外たくさんあることに気がつく。 DogRun西日本w.w-holdings.co.jp.gif 080903高速道、愛犬連れ遊ぼう 「ドッグラン」施設2.jpgどうも西日本に多いようである。この偏在した分布を見る限りは行政主導というよりもどうも市場原理が現象を引っ張っているようである。広がりの背景が何であれ犬を乗せて長時間走る人が増えている現状に照らせば良い事とは思うと同時に自動車という閉鎖空間に彼らを乗せて長時間走ることは動物愛護という観点から言うと少し間違っているという事に飼い主が気付くべきなのかもしれない。

日中食文化考 食べつくす文化と食べ残す文化 [随想]

 大きな題となってしまったが、文化といったテーマはいろいろな切り口があり、その一部と解釈したい。そもそも私自身はそのような研究をしている身分ではない。自分なりに感じる事を書き留める。
 ラーメン=中華料理といった田舎の中華料理ではなく横浜や神戸の中華街にあるような中華料理の店に行き食事をするとする。たいていは何人かのグループで行きいろいろな品を注文しターンテーブルに乗った料理を思い思いに取り食べていく。当然のことながら人気の食材はなくなるが、残してしまう料理もある。ただ中華においてはこのことは失礼にはあたらない。上海に行ったとき現地調達の蘇州旅行に参加した。参加者は殆ど中国人でガイドも中国語の旅行である。日本人向けの旅行に比べ格安である事がその理由。その旅行で知り合った一人の日本人とその連れの中国人の四人で昼食を食べた。日本なら何々定食を個々に注文するところであるが、中国人の習慣に任せたら数皿のおかずを注文し、ご飯を四つ注文しそれらをテーブルに並べると個々に好きなものを食べる事になった。やはり好きなものを個々が食べ、残ったものはしょうがないといった食事風景である。映画で見る家庭料理も同様誰のものとは決まってないものをみんなで突っつくのが基本であるようだ。中国で家庭に招かれもてなしを受けたが、食べきると次々料理が運ばれてくる。残すと悪いと思った日本人は一生懸命に食べ度を越してしまうといった笑い話をよく聞く。中国人の習慣としては客人が残すほどもてなす事を礼儀とする考えがあるというわけで、それを知らないと笑い話のような事が生じる。いわば食べ残す文化であろう。
 一方で日本人は家庭においても食堂においても個々が個人の食べる食事、言い換えると定食を食べる文化である。高級な日本料理店といえば懐石料理であるがこれも個人の食べるものが次々運ばれてくるのが基本である。古くは「御膳」で食べていた頃も「御膳」の上のものが個人の食べるものといった文化がある。そのものは個人が食べる事を約束された権利であり、義務である。よく米粒など残しているときまって「お百姓さんが苦労して造ったものを残すとは失礼だ。」とたしなめられたもので私など食べ終えた茶碗に茶を注ぎ食べつくす事を礼儀と考えるようになったものである。食べ終えた魚の煮付けなどもお茶をかけてスープを飲み干すとまた格別である。また残った煮つけを冷蔵庫などにおいておくとスープの部分が固まる、これをおこごりと読んで好んで食べたものである。栄養学者からは塩分摂取が増えるとお咎めを受けそうだが、食べつくす文化の表れと考える。ようは日本の食文化は個人の食べる分が規定されていてそれを残す偏食を指摘しやすい文化といえる。先に書いた中華街の料理でもよく見るとエビフライや、春巻きなどその数が客の人数分であり、日本で食べる限りどこかで誰の分といった境界がされているのが現実である。
 勿論これは一側面からの見方であるし例外は常に存在する。中国でも餃子などを頼むと一套二套とセットでやってくるし、さそりや犬など日本人の食べないものまで食べつくすのが中国人である。先日九州で糸瓜を漬物にして食べる習慣があることがテレビニュースで流れたが、糸瓜などは中国人にとっては普通の食べ物という事である。食材に対する思いは日本人より中国人のほうが強いのは紛れもないことかもしれない。また日本人でも鍋料理、すき焼き、皿鉢料理などの刺身類などみんなで突っつくのを基本とする料理もある。
 ただ一般的に言って日本の食事は個人の食べる分を規定して、それを食べつくす事を義務とし食材となった動植物への感謝を忘れないよう教育する事においては合理的であろうと思う。そして偏食を防ぐ事にも役立つ。しかしながら、個食・孤食などという言葉が生まれ各自が勝手に食べるようになったとき、この日本式食事の効用は失われていく。伝統的食材を残そうという動きもあるが、「御膳」に代表される伝統的な食文化にも光を当てておくべき時期と思うが如何。

 日中食文化考と題したからにはこの違いから日中の違いに考察を加える必要があるでしょう。日本の食文化に関してはここから食にも何か儀式を求める性格が反映されているのではないかと思われます。そして個人の取り分を最初に規定するというのは狭い日本で争いを避ける方法のひとつではないかと思ったりもする。対する中国はとても広い国です。とても個人の取り分がどうのこうのといってられない。俺のものは貴様のものといったshareの精神が日本人などより強いのではないかと思います。何かが残ればそれを利用して誰が何をやってもかまわないといったおおらかさがあるように思う。名作大地の子で主人公陸一心が日本に帰るか、中国に残るか迷いつつ日本の父と長江を旅する中で私はこの大地の子なのだと悟った場面を想像してしまいますが、中国人の場合全てをあの広大な大陸から考える習慣があるのかと思うのだが考えすぎだろうか???


タグ:食文化 偏食

おくりびと [電影]

おくりびとeiga.comホームページより。

監督:滝田洋二郎 脚本:小山薫堂 音楽:久石譲

キャスト:本木雅弘、広末涼子、山崎努、余貴美子、杉本哲太、峰岸徹、山田辰夫、橘ユキコ、吉行和子、笹野高史

おくりびと.jpg

 まずは、日本映画のおくりびとがモントリオール映画祭でグランプリに輝き、中国でも金鶏賞を獲得した事を素直に喜びたいと思います。ハリウッド映画に代表される莫大な資金をかけた映画が、その画像で人を圧倒、感動させるのは当然として、このようなそれほど資金を使ってないであろう作品を丁寧に作って人を感動させる事が出来る事はすばらしいと思います。
 映画の魅力のひとつは私たちが日常出会うことの出来ない世界を教えてくれる事に有り、納棺師という新たな世界を教えてくれる作品だという感想は余りにも単純でしょう。山崎努演じるNKエージェント社長がniche industryと表現したように、こういう他人の避ける産業は上手くやると儲かるというのも事実で、何年か前アメリカでは殺人現場などを清掃する産業が有るという話を聞いたことがありますが、これも映画の主題ではない。
 現在日本人は「死」というものを余り身近で経験する事はなくなったとよく言われます。毎日のように殺人事件だの、自殺だのの報道に接しているではないか、これほど「死」の話を聞いているという意見も有るかも知れないが、それは単に「死」の情報を得ているだけで「死」を体感しているわけではない。何も好んで体感する必要はないが古来生きていれば何らかの体感の機会を持ってきたが、社会の発展というか快適な生活を願う人々の欲求は「死」の体感を遠ざけてきた事実が有る。そしてそれを代行する人々をあまり自分の身近な存在にはしたくないというのが現代なのではないだろうか?
 現在日本人の80%が病院で亡くなっているという事実が有る。裏を返せば臨死の時間を家族で見守るという時間は以前よりきわめて短くなり、その代行を医療職に任せている傾向が強いといっても良いだろう。この数字は「死亡場所の国際比較」syou21.blog65.fc2.com/blog-entry-191.html  によるとアメリカでは41%、オランダでは35%であるとのことで、日本はかなり特異な存在といえるかもしれない。そして葬祭産業が育ってくる。一世代ほど昔なら病院で亡くなっても遺体は自宅に戻り皆で寝ずの番で通夜をし、村の人々とともに棺おけに遺体を収め村の行事として葬儀を行っていた。埋葬まで遺体は厳然として目の前にあったものである。現在は無くなると看護師により死化粧やら綿詰め、着替えなどをしてもらった後病院の遺体安置室に移される。その後家庭に帰る遺体も有るが、近年の住宅事情からそのまま葬儀屋を借り切って通夜・葬儀をすることが多くなってきているようである。最後の入院のときもうこの家には二度と帰れないといった思いを秘めて入院する人々が多いのではないかと思う次第である。
 宗教研究家のひろさちやさんによると、葬儀は元来そこに住む人々が「死」という事を恐れつつ行う習俗であり宗教儀式ではなかったが、日本では江戸時代に檀家制度が整えられるにつれ仏教の儀式としての体裁が整えられて次第に人々の手元から離れてきた歴史が有るということである。そして葬祭産業が出来るにつれ更に儀式化が進行し「死」を体感する機会が減ったのと同様に「葬儀」もまた人々の手から徐々に遠のきつつある。
 この映画は納棺師という職業を通して葬儀をバーチャルに体感させる意味で新鮮である。山崎努・本木雅弘演ずる納棺師が遺体の尊厳を保ちつつ納棺する儀式を通して映画の鑑賞者は遺体に対面する事になる。はるか昔の遺体と家族との関係とは異なると思うが、宗教の存在しない環境で遺体と家族の関係を儀式的に演出する事で家族に最後の別れを体感させている。先にも述べたが病院で亡くなると死化粧や着替えなどは病院で家族のいないところでしてしまうことが多いので、この映画のようにその一部始終を家族の目の前で行うことは現実的には少ないと思う。また本木演ずる大悟の父親の葬儀屋のように産業化された葬祭産業は遺体と家族との関係をもっとドライに扱っているかもしれない。しかし、この映画は納棺師の儀式を通して、観衆にもっと遺体と自分との関係を見直してもいいのではないかと問いかけているように思う。より深い別れをすれば故人は残ったものの心に強く残される。この作品で扱った石文に用いた石ころでさえ大きな意味を持つ事になるのであろう。宗教儀式ではなく、もっと真正面から亡くなった人と自分との関係を思い起こして過す必要を訴えかけている故に多くの人々の心を打つのだと思う。滝田監督もモントリオールグランプリの受賞の弁で、日本とは生活スタイルの違うカナダで評価されたのはうれしいとコメントしているが、死者との別れは宗教を超えた根源的なものだからカナダでも評価されたのであろう。
 そしてこの映画のサブテーマは以前このブログでも書いたour daily bread(いのちの食べ方)と共通するものが有る。つまり私たちが生きていく事は食べる事であり、何かの死を前提に生きている事を思い起こさせようとしているのである。「死」を体感したくないがゆえに食産業に任せている植物・動物の死を、人の死を見つめる事で同時に見つめなおすよう働きかけているように思う。そして体感したくない「死」の代償として汚らわしいものと考えている葬祭業者や屠殺業者などのお陰でcomfortableな環境を得ていることを忘れるなというメッセージを隠している。
 とにかく秀作と思う。作品の中で主人公もまた偶然に始めた仕事を通して「死」を見つめなおし成長していく。観衆もまた大悟とともに考え直すいい機会になると思う。上演が始まったばかりなので鑑賞体験を共有したい作品です。[ひらめき]


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救急の日関連行事に参加して [雑感・話題]

 九月九日はいわずと知れた救急の日です。古くは重陽の節句と言いました。重陽とは陽の数字(奇数)が重なると言う意味で、中国の五経の考えから来たものです。現代でも一月一日、三月三日、五月五日、七月七日何れも何らかの節句として残っている事に気がつくと思います。そして最も大きい陽の数字である九が重なる非常に陽の強い日と言う意味でした。重陰の日は特に意味の無い日であったこととは対照的です。一方救急の日は1982年に決められた、ただの駄洒落記念日のひとつです。
 毎年この時期に全国で救急の日関連事業が行われ、救急医療の充実が図られてきたとのことです。先日その行事を覗いてきました。 救急医療を取り巻く昨今の動きを受け、救うことの出来る命を救う為に、救急車を用いた救急受診のあり方について一考を促す話で救急医療の今日的課題である救急車の適正利用に関する話題提供がされていました。
 聞きますとこの十年間で全国の救急車の出動回数は50%の増加が見られるとのことです。救急を要する病態が増加したのかというとそうでもなく救急車を呼ぶ事に対する抵抗感が極めて低くなってきている事が指摘されています。関係者の間では救急車のタクシー化という表現もされていて、アメリカや、中国などでそうであるように救急搬送の有料化も議論されているところです。その昔労働災害や交通戦争とも言われる交通事故が多発した時代の1963年改正消防法により消防の業務のひとつとして救急搬送業務が法制化されたことに始まります。救急車の制度が出来た頃はそういった傷病者を如何に救うかという時代の要請があったわけです。救急車が来ようものなら隣近所の人が「救急車が来た!誰やろ、誰やろ!」と半分は心配の心、半分は好奇の心でまるで火事場の野次馬のように人が集まることから、ちょっとした病気で救急車の出動を要請することは、医療にかかったという個人情報が世間に筒抜けになることから多くの人が躊躇したものでした。自分の都合のみで受診するコンビニ受診も問題とともに現代の救急医療の大きな問題とのことでした。
 引き続いて、救う事の出来る命を救う為に現場で出来る最たるものとしての救急救命のABCDについての講演と実習がありました。2004年AEDの一般解禁が認められたときにはとにかく処置手技を如何に正確に伝えるかと言ったことに重点が置かれていました。確か2005年の名古屋万博のときでしたでしょうか、会場で心肺停止になった患者さんを居合わせた医大生がAEDを用いて救命した話題がニュースになったことがありました。そういったこともあり、万博会場のような人の集まる施設、例えばスポーツ会場、学校、ホテル、デパート、レジャー施設などに一気にAEDの開設が続き、今では何かの集まりがあって心肺停止の事態が生じたときAEDが無いといった場合、そこが大きな会場であれば「なぜAEDが設置してなかった?」といった責任問題が問われるのではないかとまで思われます。そんなAED装置設置の拡大を受けた今日、如何に住民に対してその手技に興味を持ってもらえるかといった活動に変わってきているように思いました。具体的には寸劇を用いて楽しみながら手技を覚えるといった趣向に変わってきていました。参加型活動である実習においても以前と比べて尻込みする人も少なくたくさんの方が参加していました。きっと参加している人は初めてではなく何度か経験する事により次第に慣れてきているものと思われ、きっと実際にことが生じたときも冷静に対処できるものと期待できるのではないかと思った次第です。考えてみればD:defibrillationは機器のお手伝いをするだけで技術的にはABCのほうがずっと高度です。AEDの使用を解説するビデオ音声をuploadします。一度でも体験した事のある方にはimage-trainingになるのではないでしょうか?


 こういった機会を利用してみんなが救急医療をその主役である救急隊・病院関係者とともに理解しあい、とかく人手不足といったことの強調される救急医療の現場をみんなでよくしていく必要がある時代に来ているのだなと感じた次第。皆さんの地域ではどうでしたか?

注釈
救急医療のABCD
A:airwayの略で気道の確保を意味する。具体的には窒息状態の人の頤の骨を用手的に持ち上げて窒息状態の解除をする手技
B:breathingの略で、呼吸停止状態であればmouth to mouthで人工呼吸をする手技。今は唾液を介した感染症を予防する為の道具が売られているらしい。
C:circulationの略で循環の意味。脈が触れない状態のときは心臓マッサージで循環を維持する手技。
D:defibrillationの略で、脈が触れないという状態のひとつに心臓が「痙攣」状態にあることが理由のときがあり、これを解除すると脈が触れるようになることがある。痙攣状態の解除をする手技を指す。専門用語では除細動という。


タグ:救急医療 AED

某局24時間テレビについて [テレビ評]

某局24時間テレビについて
 もう忘れてしまった、24時間テレビと言う番組の放送が始まったのはかなり以前のことだった。その頃はコンビニなる店舗やそれに伴う深夜の生活様式というものも今ほど普通に見られることではなく、新鮮な響きを覚えたものである。それから十数年、いや二三十年この言葉を聴いても何も新鮮なものも覚える事もなく、相変わらず黄色い服をトレードマークに繰り広げられている。この黄色はいったいどこから来ているのだろう。高倉健・倍賞千恵子で人気を博した「幸せの黄色いハンカチ」あたりの出典と同じなのだろうか?黄色は幸せ以外に退廃といった意味も持つ。BeatlesのYellow submarineは影にBeatles自体の退廃と、間も無く来る解散を暗示しているのだといった話を聞いた事がある。以前どこかで中国では黄色は皇帝の色といったことを書いたが、実は黄色小説、黄色電影(映画)は日本語に直すとピンクに置き換えられる。
 話を元に戻すが、24時間テレビは当初何時間か見たような気がする。印象としては全国規模に広がったテレビ局のネットワークをつなぐひとつの番組作成の実験だなあと感じたような気がする。出演者は少しはしゃぎすぎかといった印象も持った。先日一時間くらいこの番組を見てはしゃぎすぎだとの印象はさらに強く感じた。ネットワークを利用して日本国中の「感動的」な話を掘り起こしそれを脚色してさらに「感動的」とする、理由もなく涙を流すことぐらい朝飯前の徳光アナを初めとする芸人の涙がさらに「感動的」なストーリーを作り出す。視聴者参加型の形式にして製作者・視聴者「一体感」を盛り上げる(この一体感は毎年放送する事により視聴率の維持に役立つだろう)。以下、とても引っかかりを感じる場面を列挙する。たった一時間の視聴での感想だが、24時間付き合った人の感想は如何なるものか、機会があればblogの検索でもしてみることにしよう。
 まず、募金活動を映像でながし、募金額をかつての歌謡ショウのように途中経過を流しているのは、何かと批判も多かった中国で繰り広げられた四川地震での募金をあおる運動にも似ている。
 もっと不愉快なのは一人の芸人を仕立てて一昼夜のマラソンを行い、それをしつこく実況中継する。今年は110kmあまりだったが、たやすい事ではない事は分かる。しかしその実況にあたるスタッフは機材を担いで同じことをしているし、水分補給やマッサージ等の御世話係も同行した大名行列である。オリンピックでは42.195kmを休むことなく走るマラソンをあれば50kmを四時間弱で歩いている。110km走を一日がかりで移動して、それを「公共」電波を用いたテレビ放送で、しかも「感動的」ドラマとして流す必要が何所にあるだろうか?初めて長時間マラソンなるものを見たのは間寛平のときだったが、今回の放送を見て「まだやっとんの?」というのが率直な感想。一人に焦点を当てるより、より多数の人の参加を得て十時間耐久レースにしたほうがよりスポーツとして成り立つと思うが、一人を走らせるというのは単なる作り物にしか見えない。さらに驚いたのは本放送翌日に当たる9/1夜「エドのマラソン舞台裏」とかいう題で一時間半の放送を流した事、勿論私は見てないが何を考えとんねんというのが感想。ドラマと同じ作り物そのものである。110km走をくさすわけではないが、世の中にはオリンピックのマラソンランナーを始め市民ランナーに至るまで感動的な走りをしている人があまたいるはずで、そのことを思うとくだらない放送である。しかし、私がもっと驚いたのはその最高視聴率が41%,平均でも32%で北京オリンピック女子マラソンの視聴率を上回ったという。比べる事自体おこがましいが、なんと日本人のひまな事!と思う。
 魚鱗癬という病気が難病指定されたというトピックも「感動的」であった。ネットで調べたが、俗に言う難病というのは特定疾患の一部で、魚鱗癬はそうでなく小児慢性特定疾患に認定されているので、報道機関としては誤った情報を流すべきではない。それなりに視聴率も高い番組である事を考えると、もう少し考証をしっかりとすべきである。それはともかく、???と感じたのはその病気の子どもの言として「やはり、テレビの力は偉大である。テレビのお陰で難病指定された。」云々のレポートをしていたこと。テレビ放送のインタビューを受けた人は御存知だろういろいろな話をしても「編集」の名の下思いもよらぬ発言が放送され、裁判になることもある。故吉田茂首相はマスコミ嫌いで有名だったが、現在の政治家もその切り抜き作業に時々とさかを立てているのも日常である。テレビの編集者は自分に都合のいいことを切り抜く、つまりこの少年の発言は放送編集者にとって非常に都合のいい部分だったわけである。つまり、「テレビは政策を作る」とでも言いたいのか?世の中にはいろいろな病気があり、その難治性などを厚生労働省の役人や、学識経験者が集まり、国の予算等もにらみながら決めている作業をテレビ放送という手段で一刀両断に決められるというのは非常に危ない。小泉内閣の頃劇場型政治という言葉が流行ったが、今度は劇場型政策かと思うと複雑な気持ちに駆られる。大杉君枝とかいうテレビ関係者の自殺で社会的注目の集まった繊維筋痛症もマスコミ誘導の色合いが強い。アッシャー症候群問題で活動している方も難病指定とテレビの影響力というコラム(handicap.fc2web.com/mag/backnumber/back38.html)の中で、今後の活動は以下にテレビ局に取り入るかが大切になりそうと述べている。地道な運動をするよりもテレビ放送のディレクターに取り入った方が良いとしたら、・・・・そんな力を選挙の洗礼さえ受けてない一人のテレビディレクターに与えて良いと思いますか?
 他の放送は見てないのでこれ以上の感想は無い。でもきっと似たり寄ったりの「感動的」内容なのだろうと思う。この運動に賛同して街のあちこちでボランティアとして活動している皆様は御苦労様だと思うが、実際に表舞台で感動を売っている徳光アナを初めとした芸人の皆さんはおそらくボランティアではなくギャラのあるれっきとした仕事なんだと思う。ギャラを原ってもテレビ局としては視聴率は良いし、結果協賛企業も集まるので広告収入には事欠かない割に合う番組なのだと思う。かつての花形番組だった歌謡曲のベステテン系の番組や、ロードショー番組、おそらく実力の低い役者の増えた事によるドラマ人気の低迷などにより、売り込める番組といえばアホの坂田的な人物を起用して視聴者に優越感を与えつつ雑学知識を得られるような番組しかない情況の中ではこの24時間番組は大切なのかもしれない。しかし、地球温暖化の話題の中で効果の大小はともかくとして、コンビニの深夜営業の自粛の叫ばれる中、コンビに以前からあったこの番組もあり方を考える時期に来ているのではないか。この番組が日本人のボランティア意識の向上に寄与したという事を否定するものではないが、もうそろそろ役割を終えたとして24時間型の放送を終了して、もっと地味で良心的な放送をしても良いのではないか。それともまだ視聴率を稼ぎたいだろうか?
 福祉ボランティアの仮面を被ったバラエティショーはもうほどほどにしておいて欲しい。

乱れる日本語2  片仮名偏重の福祉研修レジメから [雑感・話題]

 今回は片仮名使用が不快なほど目立つ福祉研修資料をとりあげる。障害者福祉及び障害者自立支援法に関する研修のレジメを用いる。レジメの内容を吟味する気は無いので気になる表現の見抜きだしてみる。

◎A国連障害者権利条約
障害(ディスアビリティ)のある人には、・・・・・・・長期の身体的、精神的、知的又は感覚的な機能障害(インペアメント)のある人を含む。
◎B19条 自律(自立)した生活及び地域社会へのインクルージョン
・・・・・・地域社会への障害のある人の完全なインクルージョン及び参加を容易にする為の効果的・・・・・・・・
◎C必要な在宅サービス、居住サービスその他の社会支援サービス(パーソナル・アシスタンスを含む)にアクセス
◎D経済的自立即ちタックスペイヤーになること
◎Fソーシャル・アクションにつなげる
◎Gノーマライゼーションの原理
一日のノーマルなリズム
一週間のノーマルなリズム
一年間のノーマルなリズム
一生のノーマルな経験
ノーマルな経済水準
ノーマルな場所にノーマルな規模で・・・・
◎H狭い視野でタコツボに陥る

◎Aから◎Hまでそのレジメで用いられた表現である。◎Aのディスアビリティ、インペアメントはその前に翻訳語を設けているのにさらに“擬音”片仮名翻訳語を加えている、全く無意味な表現である。加えるとすると障害、機能障害は何の訳語であるかを示すdisability,impairmentを加えるべきで片仮名語を加えると言うのは文章の書き方を心得てないとしか言いようがない。さらにこの表現は「障害」と簡単に表現してしまうといろいろな意味に取りかねない危険性を回避する為に器官・機能の障害と、器官・機能の障害の有無に関わらずある一定の能力の障害に分けて考える為に皆が頭を絞って考えた言葉であるにも拘らず一方で機能障害と訳しながら、一方で漠然とした障害と表現するあたり、歴史的な経過を無視していると言わざるを得ない。
◎Bから◎Fまでは訳語はつけてないが、“擬音”片仮名翻訳語を用いている部分である。定義ははっきり出来ないもののカステラや、ビロード、テニス、コップなど日本語として固定した言葉以外にこの片仮名翻訳語を用いる際、書き手は適した意訳翻訳語はないのか真剣に考えるべきで何も考えずに“擬音”片仮名翻訳語を用いるべきではない。そうでなければそのままinclusion, personal assistance, tax payer, social actionと書くべきである。インクルージョンなどは参加とか一員化とか何とでも訳せるであろうし、あとも個別援助、納税者・税納付者、社会的活動と訳して何の不都合があろうか?全く理解できない。
◎Gのノーマライゼーションについては“擬音”片仮名語が好きというか、翻訳に関して努力を払う気のない行政・福祉職がおそらく既に固定した日本語としてしまっていると思われるのでAからFほどノーマライゼーションと書く事を非難しようとは思わない。ただ----rizationという英単語はひとにより-----リゼーションとかいたり -----ライゼーションと書いたりすることがあることを理解しておくべきかと思う。例えばmotorizationはモータライゼーションと書く人は少ないであろう。同じ事を書いても-----リゼーションとなったり -----ライゼーションとなるのは余り望ましくないと思うのだが。そういった事を避ける意味でも安易な“擬音”片仮名語を用いるよりnormalizationと書いたほうがいいと思う。ノーマライゼーションにひきづられるように、とてもしつこくノーマルな・・・・・と言った表現が続く。これ等は下手な日本語の最たるものでしっかりとした訳語を用いるべきである。
◎Hはある意味番外編である。下手な日本語が他の形でも出た結果である。いずれにしても比喩・隠喩法であるがここで用いるべきは普通なら“袋小路に陥る”であると思う。確かにタコツボもなんとなく理解できるが、用いるべきではないのではないか。ためしに広辞苑(電子辞書版)を引いてみた。①蛸をとらえるのに用いる用いる素焼きの壷、②縦に深く掘った一人用の塹壕とある。少なくとも袋小路のような抽象的な意味はない。やはり日本語を知らない人間の書いた文章としか思えない。

このレジメは福祉形の学生の書いたものではないあくまで研修の講師を務める人間の文章である。数十人或いは数百人を前に講習を行うと言う事は間違った日本語がそれだけのスピードで伝わると言う事になる。ある意味細胞分裂で増えるスピードより速いスピードで伝わる事になり影響力は大である。このような意味の無い“擬音”片仮名語は早急に止めてもらいたいものだ。
なお原語である英語表記は文を難しくするのではないかといってあくまで日本語にこだわるべきだと主張する人もいるのは承知している。医療裁判などに際し証拠書類としてのカルテが英語またはドイツ語交じりのため裁判関係者、あるいはカルテの記録の主役と考えられ始めた患者本人がわかるカルテをという事で、カルテの日本語記述の指導に困っているという医師の話を聞いたことがある。それでも“擬音”片仮名表記すれば日本語とみなすらしい。馬鹿馬鹿しい話だ、アルファベットで書いたほうが本当の意味を伝える事が出来るのにエセ日本語にこだわる人が多すぎる。“擬音”片仮名を用いるくらいなら、しっかりとした訳語を考えるべきであると言い返したい。しかしよく考えてもらいたい、日本の義務教育就学率は100%に近い事はみんな知っている事である。つまり100%近くの人が英語の基礎教育を受けているのである、つまり「いずれの御おん時にか・・・・」等の古文よりも英語を知っている人のほうが多いのである。normalizationをnativeの発音しようがしまいがどちらでもいい。あくまで日本文の中の英単語、ノーマリゼーション、ノーマライゼーション、ノルマリゼーションいずれでもいいであろう。読み手が文章として呼んで理解できればいいのである。だから原語をそのまま表記するのは理解できない人に対する配慮が足りないと自らを正義ぶる批判は止めるべきである。これを英語表記と考えずにアルファベット表記と考えたらどうか、アルファベットなら日本語の表現方法として既に小学生でも知っているではないか。日本語は漢字、片仮名、平仮名の文字体系があるとよく言われるが、それにアルファベットの体系もあることを忘れているのではないかと思う。
今日用いた例文は特に乱れていると言う意味ではない、他にも福祉系の文章を見ていると訳しきれずに“擬音”片仮名語に極めて依存した文章に出くわすし、とても不快感を感じる。自分は英語を用いずに対象に対して優しい日本語を使っていると思ったら大間違い。“擬音”片仮名語の多用は退化した日本語の象徴である。乱れる日本語1で日本語は成長していると書いた。ある意味これは希望である。日本語を含む原語はとどまる事はなく変化している。いろんな可能性を包含し変化するのであれば成長であるが、。“擬音”片仮名語の多用・偏重は退化であろう。  


乱れる日本語1 氾濫する安易な片仮名語 [雑感・話題]

 外来の文化に接しそれを吸収しようとするとき外来文化の中の概念を自国の言葉に置き換える必要があり、翻訳と言う作業が必然的に発生する。民族にとってその言語の翻訳作業における柔軟性が外来文化の導入・同化の公立を大きく左右するひとつであると言ってよいであろう。私たちの使う日本語と言うのも実に柔軟性のある言語であった、いや言語であって今も成長を続けている。
 その原型は口語であり文字を持たない言語であったが1500-2000年ほど前中国から漢字が伝わり、そのまま自らの文字としてしまった。当初は漢字或いは漢文をそのまま理解していたが、日本独自の平仮名、片仮名の発明により文字を用いたコミュニケーションの領域は大きく広がり、現在でもリテラシーの極めて高い民族である事は周知の事実である。先の文章で意識的に“片仮名”ことばを用いてみた。成長した日本語の中でどちらも既に注釈不要の日本語と考えていいと私は思っているが、それぞれ意思疎通、識字率と言い換えても通じるであろう。
 斯様に漢字をそのまま飲み込んだ日本民族は自らの言語も漢字・漢語の世界に導入し、本家にはない訓読み、送りと言う技法で独特の世界を気づいていき、漢語とは一線を画した言語になっている。近代の西欧文化との邂逅による時期には西洋語を日本語に翻訳すると言う一大事業があったが、これも上手く処理してきた。economyは経済に、cultureは文化に・・・・・・、明治時代は西欧の文化を日本語に取り込む事が盛んであった。その手法は当時の文化人が造語を作ったものもあればすでに漢語の中の言葉にあったものを訳語として採用し新たな意味を加えたものも合ったと言う。その結果明治時代は漢字を用いた言葉が流行った時代とも言える。しかし、外来文化を吸収することに長けた言語で用いられた言葉は本家の中国にも逆輸入されていくことになる。経済や、手続など経済用語が多いようだがなんと中華、人民、共和国といった言葉も日本から中国に輸出された言葉のようであり、日本語の持つ柔軟性は独特のものである。このことを強調した著書が小駒勝美著の「漢字は日本語である」である。明治の文人たちの翻訳作業には頭の下がる思いである。
 然るに現在、日本においても外国においても確かに技術革新もあり、社会や人々の生活様式の変化も著しく新しい言葉が生まれている。しかし外国から入っている言葉を余りにも安易に片仮名を用いた擬音語に変えて用いてないだろうか。その安易な国民性を見ると明治時代の文人の翻訳の努力は何なのかと思ってしまう。例えばオリンピック、かつては日本でも五輪大会と読んでいたように思うし、中国ではこれを音訳して奥林匹克運動会と用いている。computerも日本人はコンピューターにしてしまったが中国では電脳という言葉に意訳した。最近の日本語はどうも翻訳と言う作業を放棄してしまったように思える。以下に自分は高貴な文章と思って書いてあるのであろうが、極めて低俗な文章の例を示す。これは九州大学福元先生の著辞書と翻訳(https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/5483/1/slc016p065.pdf)に紹介された典型的な下手な文章です。
 ぼくたちのプロジェクトのコンセプトは発信するメディアにいかにコンテンツをイ
ンプットするかということです。クリエイティブでクオリティーの高いメディアリテ
ラシーがインターネット時代のベンチャービジネスにとって大切です。
果たして書いた本人は書いた意味が分かっているのかどうか、おそらく擬似横文字言葉に酔っているだけなのではないかと疑いたくなる。外来語を自らの言語に置き換えず擬音語で用いる危険性は外来語がその言語体系の中でいろいろな意味を持つにも拘らず、それを理解してないものが雰囲気で使うと、正確な意味として伝わらない可能性が高くなると言う事である。その文章を読んだものも雰囲気で理解し、雰囲気だけが伝わっていく、そんな危険な文章だと思う。意味が分からないときたとえばプロジェクトでは調べようがないかもしれない、projectと書けば英和辞典にあたる事が出来る、そしてああ、語源はあの幻灯機と同じかと頷いたり出来る。メディアリテラシーもmedia-literacyと書く事により前述の識字率の意味から変化したものである事も理解できよう。どうしても原語を用いたければ片仮名語は避けてアルファベットで表わしたほうが擬音語を用いるよりもよいと思うのは私だけだろうか?
 企業や行政機関が不祥事事件を起したときよくコンプライアンスの重要性が問われる。これも順法精神と使えばいいものだが、どうもこの世界の人は片仮名言葉が好きなようである。ただcomplianceのもともとの意味とそこから来る意味の多様性を知らずにコンプライアンス=順法と理解していると別の使い方に巡りあった時理解不能に陥る。薬剤師さんたちが使うコンプライアンスは処方を守ってきちんと薬を飲むことを示す。
 このような安易な片仮名語の氾濫を受けて国立国語研究所が会議を持ち外来語言い換え提案と言う事業を行った事を御存知の方はいるだろうか。もしご存知でなかったらhttp://www.kokken.go.jp/gairaigo/にアクセスして確認していただきたい。しかし悲しいのはこれらの人々の努力を嘲笑するがごとく安易に擬音語片仮名語を連発する人種の存在である。
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